旧屋セカイのしあわせとは、美味しいものをたべて、毎日楽しく高校生活を満喫することである。

ふわふわのシフォンケーキとか、あったかいクリームシチューとか、炭酸のぱちぱち弾けるラムネとか、そういう美味しさがイコールでしあわせなのである。

それは単純明快でわかりやすく、それゆえに彼女のしあわせは確固としていた。

「…………」

早朝。ふだんどおりに起床して、セカイはふだんどおりにお弁当をつくっている。昨日のお米の残りを詰めて、佃煮を載せる。上の段には色合いを考えながらプチトマトやら卵焼きやらを並べて、蓋を閉めた。これで同じような中身のお弁当が計ふたつ、つくられる。片方は弁当箱のかたちが四角で、片方は楕円形。セカイは楕円形のほうをパステル調の水玉模様のランチョンマットでくるんで手に取り、足下に置いてあったスクールバックのなかに入れて、鞄を肩にかけた。

ぱちん、と部屋の電気を消して、キッチンを出る。マンション特有の長い廊下を歩き、玄関にたどり着いてローファーに足を差し込む。毎朝のルーチンワークをこなしながら、セカイはぼーっとした頭で今日の予定を反復する。今日はふつうに授業をうけて、ふつうに放課後になるはずだ。きっと今日も灯々ちゃんの写真撮影につきあって、一緒に電車に乗って帰るのだろう。そうだ。いつもどおり、なにも変わることのない毎日。セカイはそれでいいとおもっていた。ふつうに、無理せず、人並みに。どうして、そんなふうに考えるようになったのか。

それはこの、がらんとした家が理由かもしれなかった。

「…いってきます」
ちいさくつぶやく。べつにだれかに応えてほしくて言ったわけではないけれど、やっぱり声はかえってこなくて、なんだか虚しくなった。

ふたつめの弁当箱の持ち主は、セカイが家を出るまで姿をみせなかった。
@@@

「おっはよーセカイちゃん!今日もかわいいね!」

灯高校1年E組の窓際の席、朝にもかかわらず濃いオレンジに染まった窓の向こうをセカイは眺めていたが、そんな元気良い低血圧とは無縁そうな声に振り向く。

「あ、灯々ちゃん。おはよう」
「灯々は今日も朝から美少女みれてしあわせですわ…」

そう作り口調で言うのはあきらかに自身こそ美少女と呼ばれて差し支えない容姿のクラスメイト・灯々ちゃんで、セカイは若干眉を下げる。この子の言動がおかしいのはいまに始まったことではないのだが、やっぱりすこし面食らう。なにを言ってるのか、この子は。

「えーっと…あ、今日の数1の宿題やってきた?」
「いいのいいの、私今日ぜったいあたんないもーん」

セカイの席の斜め前の席に荷物を置いて、灯々ちゃんはそんなことをいう。長い髪の毛を邪魔そうに手ではらい、大きな目をまたたいてまたこちらをみた。

「ところでさー今度の休みどっかいかない?暇な日、一日くらいはあるでしょう?」
「うん、たぶん」

いえーい、と灯々ちゃんは笑う。あかるい彼女は写真部に所属していたりする。机に置いた荷物のなかにはたぶん、セカイもみたことがあるデジタル一眼レフがしまわれているのだろう。
ちなみにセカイは帰宅部である。灯々ちゃんには料理部なんていいんじゃない、なんて言われたが、実のところセカイは家事をするのでせいいっぱいで、これ以上他のことで時間を潰すのは気が進まなかったのだ。
べつに、家事が億劫なわけではない。
と、おもう。

「…ねえセカイちゃん、どうかした?」
「え、どうして」
「なんかぼーっとしてるんだもの」
セカイの前の席に勝手に座り、灯々ちゃんは頬杖をついた。白い肌がオレンジの光を反射している。
「え…なにもないと、おもうけど」
「そう?」
そう答えたものの、灯々ちゃんはいまだこちらを見つめている。こういうとき、美人さんは卑怯だよな、とセカイはおもった。整った顔でじーっとみられると、なにもないのになにか言わなくちゃ、なんておもう。ずるいのだ。
セカイはどうすればいいのかわからなくなって、唇をすこしだけ尖らせる。と、

「…灯々。そこ、俺の席」

低い声を放ったのは、いつのまにかふたりの横に立った男子だった。癖のある黒髪と、これも黒いふちのめがね。猫背ぎみではあるが、背が高めなのがわかる。

「あーごめーん、柊」

机をがたがたいわせながら灯々ちゃんは立ち上がり、席を譲る。蛍光グリーンのヘッドホンを外した彼、柊はなにも言わずに机のうえに背負っていた鞄を置く。
「なんか今日、くるのはやくない?」
「アオギリが珍しく寝坊しなかった」
「ふーん」
顔を上げずに淡々と言葉を返す柊は、ふっとぽけーっとしていたセカイをみた。
「……」
「…へ?」
黒曜石にも似た双眸が自分を射抜き、セカイはどきりとする。なにか、その目はひとの中身を覗き込むような。
けれど、柊はすぐに視線をそらした。めがねのレンズが彼のきれいな目を隠して、もう先ほどまでの光は見えなくなった。

「………?」
なんだろう。
セカイはあまり柊と喋ったことがない。消しゴム落ちたよ、ありがとう。プリント回ってきた、ありがとう。そんなやりとりしかしていないような気がする。なのに、なんだろう、いまのは。ただ見た、というのではなかった。言い表すのならば、セカイの中の、なにかを見透かすような…?

(…まあいいや)

嘆息して、セカイは考えるのをやめた。灯々ちゃんが自分の席にもどるのを視界の端におさめ、また空でもみようか、と窓に目をむけようとする。そこで、自分のみっつ前の席についた女の子が目に入った。

筑波峰うぐいす。
さらさらしていそうな黒髪と、暗い赤色をした目。他人を寄せ付けないオーラが常に漂っていて、すこしクラスで浮いているような気もする。
(喋ったこと、あったかな)
思い出せない。セカイにとって、うぐいすはそれくらいの存在だった。変わったオンナノコ、自分とは遠いオンナノコ。
(…いつか話すことがあるのかな)
セカイは彼女の後ろ髪だけを見つめながら、そんなふうに考えた。
@@@

セカイの夢にでてくるのは、いつだって決まって兄だ。

夢のなかで、セカイはひとり、暗闇に立っている。まわりには星屑がいくつも浮かび、ちかちかと瞬いてはいるものの、断続的な光では遠くになにがあるかまではわからない。
指先をのばし、星に触れてみる。そっと触れただけでちいさな星は弾け、どこかに飛んで消えた。
(……夢だ)
そしてセカイは常に、それが夢であることに気づく。なのでゆっくり息を吐いて、適当な場所を見繕い、座る。この夢はいつ覚めるんだろう、なんて考えながら、ふたつの三つ編みをほどいてまた編み直す。時間潰し、暇潰し。そのふたつには慣れていた。セカイの人生なんて、そんなものだ。

「…そんなものだってわかってるくせに、甘んじて享受してんのかよ」

唐突に、声がした。一瞬息が止まって、顔を上げる。見慣れた自分のものとよく似た色の短髪。おんなじ色の瞳。背の高い姿。不機嫌そうな眼差し。
兄だった。

「…お兄ちゃん、」
わかっていたはずだった。この夢のなかで、兄がでてこなかったことなんて一度もない。いつだって、セカイの考えを見透かしたような台詞とともに現れるのだから。なのに、セカイはまた怯える。
きっと、兄はまた、私を叱るかのように言うのだ。私がただ逃げているだけだということを、私が目的もなく生きているだけだということを、
私が、誰かの重荷になっていることを。
「…だから、おまえは」
珍しく、兄はそこで黙った。
「…?」
逡巡するような目、ひらいていた口をまた閉じて、一度きつく目を閉じたかと思えば、兄はふっと言葉を漏らした。

「だから、俺はーーー」


@@@

「ーーーセカイちゃーん」

高めで綺麗な灯々ちゃんの声に、セカイは目をひらいた。
しばらく意識はぼんやりしていて、まぶたを一度こすって周囲を見回す。見事に教室にはだれもいなかった。もちろん、ひとつ前の席の柊も、みっつ前の席のうぐいすも。

「…あれ?」
「あれーじゃないよー!セカイちゃん、きのう何時に寝たのー?うつらうつらしてるなんてめずらしいなー」
「え、そんな遅くなかったとおもうんだけど…」

いつのまにかかなり目前に迫っていた灯々ちゃんの目と自分の目をあわせて、首を傾げる。
ようやく覚醒し始めた脳みそをもってして考えてみる、けれども自分がいつ夢にダイブしたのか思い出せないし、その夢の内容も思い出せなかった。

「あー、私はとりあえず部活動いこうと思うけど、セカイちゃんはどうする?」
「え、いま何時?」
「ほら」

灯々ちゃんがみせてくれた端末の液晶ではアナログ時計の長針が5、短針が7あたりをさしていて、「わっ」セカイはすこしだけあせった。
「うわあ、わたし夜ご飯の買い物しなくちゃいけないから帰らないと」
なんで寝てしまったんだろう。ぶつぶつ愚痴を呟きながら、慌ててスクールバックに教科書やらなんやらを詰め込む。
そんなセカイを灯々ちゃんは見上げながら、きっと深く考えないで言った。
「家事が大変なら、ちょっとでもお兄さんに手伝ってもらえばいいのに」
「ーーー」
手が、止まる。ふいに言われた言葉に脳がぐらついた。お兄さん。兄。お兄ちゃん。
旧屋ソラ。
「…無理、かな」
手を止めて、薄い声で呟いたセカイをびっくりしたような顔で見つめ、やっと自分の失態に気づいたのか、灯々ちゃんは慌てて顔の前で手をぱたぱたふる。
「ご、ごめん!そういう意味で言ったんじゃなくて、あのね、」
「ううん、大丈夫。ごめんね」
笑って首を振るセカイに、灯々ちゃんはまた、「ごめん」と繰り返した。
(…大丈夫、)
私は大丈夫。
そう自分に言い聞かせながら、セカイは申し訳なさそうな灯々ちゃんに笑って声を掛けるのだ。
@@@

(…さつまいも、黒胡麻、砂糖、醤油、あと蜂蜜)

買い物を終えて、今日のメニューのため必要なものをちゃんと買ったかどうか、頭のなかで反復する。
(うん、ぜんぶある)
オレンジの空の下の路地。セカイは帰り道を歩きながら確認し終えて、帰ってからの手順をぼんやりと頭にうかべた。きっとまだ兄は帰って来ていないだろうから、なるべく手早く料理をつくってから食べて、食器を洗ってお風呂に入ろう。たぶん兄は今日もまたゲーセンにでも浸っているのだろう。それから自分の部屋に戻れば、顔を合わせることもない。
私が迷惑をかけることも、ないだろう。

「さつまいも、黒胡麻、砂糖、醤油…」
「夜ご飯、もしかして大学芋?」

そこのみつあみおねーさん。
気を紛らわせるためにまた材料を呟いていたセカイは、とつぜん自分のひとりごとに口を挟んできた声に驚いて、驚愕の声よりも先に振り向いた。
「あれ?なあに、おどろいてる顔だ」
少女だった。あどけない顔には年相応の笑み。サイズがあっているのかわからないくらい袖の余った服、大きめのブーツ。やわらかい水色をした双眸、その片方の下にだけペイントされた涙と、ゆるくふたつにわけたツインテイル。

「え、っと…」
「ねえおねーさん、あってる?大学芋でしょー!」
「あ、うん」
答えれば、やっぱり!とでもいうように少女は笑う。けれどその笑みは、セカイを不安にさせるのには十分だった。
人通りのない帰り道、一日中オレンジの空、目の前で後ろ手に手を組む少女。
はやく、帰らなきゃいけないのに。

「ところでさーおねーさん」
「な、なに」
「旧屋ソラって、わかる?」
びくっ、と肩が跳ねた。
「え、なんで、」
「その反応だとー、知ってるかんじ!」
何故か兄の名を知っている少女は、三歩こちらに歩いてくる。セカイは反射的に後ずさるが、少女に気にするそぶりはない。
「じゃあ、旧屋セカイも知ってるね!」
「ーーーっ、」
自分の名前まででてきて、セカイは今度こそ自分が非日常にいるのを理解した。ふつうでなくて、異常な世界。そのちいさな少女の笑みが、まるで捕食動物のようにみえる。だからセカイがその場から逃げようとしたのは、正しい判断のはずだった。
なのに。

「あっ、どうして逃げるのー?」

踵をかえして走りだすセカイのうしろでそんな声が遠ざかる。なにかがおかしかった。へんだ。これは、私が知る世界ではなくてーー

「にげないでよ、こまるから!」
「っあ、!」

唐突に、足首あたりに灼熱。体ががくんと傾ぎ、みっともなく転ぶ。手にしていたビニール袋は中身を散乱させながら彼方に転がっていった。痛みにうめきながら前に目をやれば包丁が転がっていて、考えたくないことだけれど、どうやら少女はそれをセカイの足にむけて投げつけたらしかった。見なくても、足首が深く裂けて血が流れ出したのがわかる。痛い、どうして、わたしが。
ブーツの底が地面を叩く音がする。少女は倒れ伏したセカイを追い越すと、落ちていた包丁を丁重なしぐさで拾いあげた。その目は、無邪気な光をたたえたままだ。

「小枝、ササくんに頼まれてるんだからー、ちゃんとやらなくちゃ駄目なのー。待ってて、いま旧屋セカイの写真みせてあげるからー」

少女ーー小枝はポケットを探り、くしゃくしゃになった紙きれを引っ張り出した。
「ほら、このひと!知って、…あれ?」
不思議そうに首をかしげる小枝に、セカイは背筋が冷えた。わかったのだ。
その写真にはきっと、セカイが映っている。
「あれ、これっておねーさんだ。っていうことはあれ、えーっと、これは旧屋セカイで、それがおねーさんだから、」
うん。と、小枝はうなずいて、

刹那、その手から包丁が消えた。

目の前で展開することにセカイの頼りない脳は反応を示さない。物理法則を無視し、小枝の包丁はいつの間にかセカイの頭上に浮かび上がり、まるで吊り下げていた糸がぷつんと切れたかのようにセカイの頭へと垂直に落下してーーー


「【斬雨】」


セカイの頭すれすれのところで、まっぷたつに割れた。
「…え?」
セカイは呆気にとられる。ぽかんと口をあけたセカイのまわりに包丁のかけらがばらばらと落ちて、夕焼けの光を反射し光る。セカイに負けず劣らずびっくりしたように目を見開いていた小枝は、セカイのうしろから歩いてくる存在に気づき、声を漏らす。
「…《処理係》」
「《悪人》 寺ヶ岳小枝。《悪人》及び《骸》以外の一般人を傷つけることは、《正義》の名の下に禁止されている筈」
「それくらい知ってるよ!小枝馬鹿じゃないもの!」
ぷくう、と頬を膨らませ、けれど小枝はにっと笑った。ぱっとひろげた手にはいつの間にか新しい包丁が握られていて、セカイのうしろにいるらしい存在が顔をしかめたのが雰囲気でわかった。
セカイは呆気にとられるばかりで、振り向くことができないでいた。
「ーー抵抗するつもり?痛い目みたいなら、あたしはべつに構わないけど」
言葉と同時に、すらりと鍔切りの音がした。刀が鞘の内側と擦れる音。その涼やかな音色に、セカイはつい振り向いた。

真っ暗な墨汁の如く黒い肩までの髪。暗い赤の切れ長なひとみは奥が見えず、まるで銃口のようだ。鋭い目とは対照的に、意外と可愛らしい童顔。細い指で長い日本刀を握っているものの、その背丈はセカイとそれほど変わらない高さであるため、不釣り合いな印象を受けた。
そして、その顔は、

「筑波峰…さん?」

不釣り合いな日本刀を握りしめ、冷めた目で小枝を見据えるのは、セカイのクラスメイト・筑波峰うぐいすだった。

▽気温10℃の窓辺