祈りに代えて星は瞬く
(3/4)
夜明け、海で人魚が舞っている。
白んだ空の下、菜の花色の髪がぼんやりと光を放つ。ナデシコは甲板でひとり、泳ぐコーラルを見下ろしていた。海風に撫でられ広がっていく自分の髪をおさえて、羽織ったカーディガンの裾を胸元で寄せる。明け方の海上は思っていたよりも肌寒く、薄い上着一枚では足りなかったかもしれないな、となんとなしに思う。
「ごめんなさいね、付き合わせてしまって」
と、海の上からコーラルが声をかけてきた。甲板の手すりから身をのりだして、ナデシコも声を張る。
「いいよ、たまにはね」
海で泳ぎたいからついてきてほしい、と言われたのは、ナデシコが目覚めて身支度を整えているときのことだった。朝食の支度をするナデシコの朝ははやい。この時間、いつもならまだ寝ているはずのコーラルが部屋のドアを叩いたことには驚いたが、すぐに疑問は消えた。今日、彼女らはこの船を降りる。そのことを思い出したから。
「私、貴女に逢えてよかったと思ってる」
ほんとうよ、という声が、波音とともに甲板にのぼってくる。泳いでいたコーラルはその勢いのままターンして、あおむけの姿勢で海面に浮かぶ。すう、と水面を漂いながらこちらを見上げた彼女は微笑んだ。
「私ね、お母さまの話す冒険の話が大好きで、あこがれで、それで旅に出たのよ」
「……うん」
「世界中にいる人魚にも、会ってみたかったし……それに、運命の出逢いを夢見ていたの」
ウェーブのかかった長髪が海のうえで放射線状にたゆたう。コーラルはあおむけで浮かんだまま、目を瞑った。
「これからは、ティメオとふたりで旅を続けようと思っているわ。ふたりで世界中を旅して……彼を私の故郷にも連れていきたいの」
「故郷……海のなかにあるの?」
「そうよ、人魚の村だもの。実はね、人魚の村には海のなかで呼吸できない人間を招くための準備があるのよ。これは秘密なんだけれど」
言いながら、コーラルは目を細めて笑う。
「人魚が認めた人間だけ、私たちの村に来ることができるの。地上じゃ私たちは弱者と思われがちだけど、人間だって海のなかでは生きられないでしょう?」
「息が続かないで溺れちゃうからね」
「ふふ。貴女ならいつでも来ていいのよ。いつか見せたいわ、海のなかの景色を」
そう言われて、返答に詰まる。
いつかの話。いつかそんな日が来ると断言することなんてできるはずなくて、なんて答えたらいいのかわからなかった。喉元に言葉がつかえて、開きかけた口を閉じる。
沈黙するナデシコをちらっと見上げたコーラルは、なにを思ったか身をひねり、とぷんと海のなかへ潜った。
「!」
思わずナデシコは甲板から身をのりだした。灰色がかった水面の向こうへと菜の花色が遠ざかり、繰り返す波のあいまに消えてゆく。泡立つ海の表面に目を凝らすと、見ていたのとはちがう方向からぱしゃん! と飛沫の立つ音が響いた。
「あっ」
空を──空を、人魚が舞う。視界いっぱいにひろがる真白い空を切り取るように、しなやかなシルエットが横切っていく。まるでイルカのように海面からジャンプした彼女は朝焼けを背に悠々と滞空し、目を奪われているナデシコのまえで、甲板に着地した。
「わっ、とと、」
尾びれで着地したコーラルは両腕でバランスをとりつつ何度か飛び跳ねて、そのまま倒れこみそうになり、ナデシコは反射的に腕を伸ばして彼女を受け止める。その身は思っていたよりずっとかるくて、少し驚く。かたちのよいコーラルの後頭部がよく見えて、なぜだかふしぎな気持ちになった。
「大丈夫?」
ナデシコは思わずそう声をかける。ナデシコの腕にすがりつくような姿勢になったコーラルはふるふると頭を振った。水飛沫が飛んで、朝露のようにきらめく。コーラルは照れたようにくすくす笑った。
「ええ、ありがとう。やっぱり地面に立つのって難しいわね」
ふたりは甲板にそっと腰をおろす。コーラルの身から滴り落ちるしずくがじんわりと甲板に滲みてゆく。
ナデシコの腕に触れている人魚の手はあたたかい。いつか彼女が話していたとおり、ひとと同じ血が流れていることを証明するように。
「あのね。いつかの話って、祈りだと思うの」
ふと、コーラルがそんなことを口にした。え、とナデシコは声を漏らす。つい先刻の会話が思い返される。自分が返答に詰まったことを、見透かされていたのだ。
「いつか会えますようにって、その日が来るまで元気でいられますようにって──そういう祈り。それを無理だって、できるわけないって言うのは簡単よ。でもね、そのいつかを信じて祈り、願うひとを、嗤う権利なんてだれにもない」
「……」
まっすぐに、コーラルがこちらを見つめている。こがねいろに輝く瞳が長いまつ毛から落ちた水滴を照り返す。落ち着いた彼女の声を、ナデシコは黙って聞いていた。
「私は貴女とまた会いたいわ。また出会って、恋や愛の話をして、一緒に笑うの」
語りかける声音が心臓に滲む。
ティメオが彼女を想う気持ちが、わかるような気がした。誰に対しても分け隔てなく、生まれ持ったであろう慈しみと思いやりを向けられる彼女。彼女の言葉はやさしくて、目が焼けそうなくらいまぶしくて、そしてどこまでもあたたかい。
真昼の海中は、きっとこんなふうなのだろう。
「……私、泳ぐのは得意なんだ」
だから、ナデシコは声を出す。ずっと閉じていた唇をひらいて、ことばを紡ぐ。
彼女の真心にこたえたかった。自分の気持ちをことばにして伝えるのは、いまだ苦手だ。けれど、不慣れでも、たどたどしくても、今はそうしたいと──そう、思えた。
「いつか──一緒に、海で泳いでくれる?」
ぎゅっと手のひらを握りしめ、ナデシコはそうっと視線をあげた。コーラルはきょとんと目を見開いていたが、やがてその頬が徐々に桜色に色づいてゆき、やがてつぼみが花開くかのごとく、満面の笑みをうかべた。
「──もちろん!」
肯定の声とともにこちらに体重をかけてきたコーラルを、ナデシコはあわててうけとめる。海風の匂いが鼻先をくすぐって、差し込んできた朝焼けのひかりだけがふたりの少女を照らしていた。
島に着くなり、【九時】と【ビターオレンジ】は早々に船を降りていった。それも正式な港からではなく、島の反対がわ、森に囲まれた浜辺から。万が一カーム・シアン号から下船するところを組織の人間に目撃されてはならないためである。
「定時連絡はきちんと行いますので」
「連泊の恩忘れるべからず!」
メイドふたりはスカートの裾をひるがえし、軽々とした足取りで歩いていった。そんなふうな台詞を残して。
それから数時間後、正式な港に到着した面々は港にとまるべつの船の前にいた。
大きな船である。全長はカーム・シアン号のそれをゆうに超えている。モルゲンレーテとはちがう島へ向かうこの船に、ティメオとコーラルは乗るのだった。
「ティーくん」
「ん?」
つま先までを覆い隠すロングスカートを履いて車椅子に乗ったコーラルと、いつも通りの服装の双子がなにやらしゃべっている。それを横目に、ナデシコはティメオを呼んだ。ヒスイは自分が組み立てたコーラルの車椅子になにか気になるところがあるのか、双子のかたわらに立ってじっとしている。
「なんだよナデシコ」
「顔、見せてよ」
ティメオは今日もまた栗鼠の被り物をかぶっていた。場所が場所だけに、先ほどから通行人の視線が彼に集中している。そのおかげでコーラルの脚にほどこしたカモフラージュに気づかれていないのは、幸いというべきか。
「私、結局ティーくんの顔見たことないって思って」
「ふーん?」
ぽつんと言うと、ティメオは首をかしげた。首の動きにあわせて揺れる被り物の釦の瞳が、じっとナデシコを見下ろしている。
「最後くらい、ってか? 意外と湿っぽいこというんだな、お前」
「わっ」
いきなりティメオが自分の頭をぐりぐり撫でてきたので、ナデシコはあわてて彼の手をおさえる。遠慮のない、雑な手つき。台風のようなその手が去っていったときには、ナデシコの頭はぼさぼさになっていた。
手櫛で髪を整えはじめるナデシコのじっとりしたまなざしにもどこ吹く風で、ティメオはひらひらと手を振る。
「残念ながら、俺の顔は運命のひとにしか見せないって決めてるから!」
「うそ、だってヒスイも見たって言ってた」
「ヒスイは俺に勝ったからいいんだよ」
「なにそれ……」
意味のわからないティメオの自論に、ナデシコはあきれて唇をとがらせた。どうしても彼の顔を見たかったわけではないけれど、彼の言うとおり最後くらい、被り物をとったその素顔を拝んでみたかったのだ。
拗ねたようすのナデシコに、ティメオはくくく、と喉を鳴らして笑う。顔が見えないティメオからそれでも感情をしっかりと読み取れるのは、彼の動作がいちいちオーバーだからだろうか。
「お前の『運命のひと』は別にいるからいいだろ?」
「え?」
「お前には最後にいいもの見せてもらったし……ああほら、おいでなすったぞ」
ティメオの声を鼓膜がとらえるのと同時に、ナデシコの足元にすっと影が落ちる。いつの間にかとなりにヒスイが立っていた。相変わらず、眠そうな顔。やけに楽しそうに肩を揺らすティメオに、ヒスイはちいさく首をかしげた。
「なんの話?」
「俺の素顔の話! ナデシコな、俺の顔が見れなかったこと悔しがってんの」
「……」
ヒスイはナデシコのほうにちらりと視線をやった。
「……そんなにこいつの顔気になってたの、ナコ」
「えっ? えっと、ちょっとは」
ナデシコの返答に、ヒスイは片方の眉をあげた。笑っているティメオのほうに目をやり、ふと口の端をもちあげてみせる。なにかをたくらんでいそうな笑みだった。
「そんなに見たいんだったら、俺がこの頭剥いでやろうか」
「ウッワおっそろしいこと言うのなお前!」
くわばらくわばら、と叫びながら、ティメオがおおげさにヒスイから距離を置く。ヒスイはふん、と鼻を鳴らし、それでもどこか楽しげなようすでいた。
「ていうか最初に会った時も、お前俺の頭剥ぐために喧嘩売ってきたよな」
「そうだったっけ」
「そうだよなにすっとぼけてんだ」
「覚えてないから」
「かー! 言うね! 言っとくけど俺のなかのお前の第一印象最悪だったからな? 悪人面で顔見せろって凄んでくるの、コイツマジやべえなって」
「俺もおまえにおんなじこと思ってたよ」
やいのやいのと軽口をたたきあうふたり。その会話を聞きながら、ナデシコはこの聞きなれたやりとりを耳にするのは今日が最後かもしれないという事実に思い至った。それは確かにさびしくて、口惜しくて──それでもこのふたりの会話を聞きなれるくらい聞くことができた日々は、確かに自分のなかで積み重なっていたのだと、そんなことを思う。
(それはきっと、うれしいことだ)
だからナデシコは笑う。頭のうえで交わされる会話に耳を澄ませて、それをこころのなかに刻む。いつか、この会話を思い出したくなったとき、迷わず記憶を紐解けるように。そんな祈りを、そっと心にひそませた。
船が出る時刻が迫り、船のまえがあわただしくなってきた。膝の上で両手をそろえ、行儀よく車椅子に乗ったコーラルのもとに歩み寄ろうとしたティメオは、なにを思ったかきびすを返した。そのまま、ヒスイのもとに戻ってくる。
「?」
ヒスイは眉をひそめ、隣にいたナデシコも首をかしげた。ティメオは「まーまーまー」だの胡散臭げな声をあげつつヒスイの肩に腕を巻きつけて、皆からすこし離れたところに歩いていく。
ふたりの背丈にそれほど差はない。ティメオが一方的に肩を組んだ体勢のふたりの影は、なんだか不格好だった。
ふしぎそうな顔のコーラル、ナデシコ、双子に背を向け、ティメオはヒスイにささやいた。
「言うことあったの忘れてたわ」
「は? 何」
「お前の復讐についてだよ」
「……」
表面上は気軽さをたもったティメオの声音だったが、その真底には誠実な響きが埋もれていた。ヒスイは黙ったままで、ティメオの声に耳を傾けた。
「お前がその道を行くのを、俺は止めないよ。俺にもかなえたい願いがあったのとおんなじに、お前にだって願いがあるんだろうからな」
栗鼠の頭が、ヒスイの頬骨にぶつかる。案外やわらかい素材でできているらしい。ぶつかっても痛くはなかったが、反動でか、被り物はヒスイと逆の方向へかしいでいく。
「けど、軽々しく自分の命を散らすなよ」
肩に回された腕にちからが入るのを感じる。いつのまに消えていたのか、ささやく声に気軽さは露ほども残っていなかった。
「自分と、それから大事なひとの命だけは守れ。それだけがなにより優先すべきことだ」
死んでも守れよ、と──その声が鼓膜を揺らし、脳髄にて反響する。ヒスイはしばらく黙っていたが、やがて薄く微笑んだ。そうするべきだと、悟っていたから。
「ああ。わかったよ、ティメオ」
「……」
今度はティメオが黙り込む番だった。ヒスイをじっと見据え、動かない。ずうっと同じ表情をするだけの栗鼠の頭からは、彼が今なにを考えているのか読み取ることはできない。
しばらくして、ティメオはヒスイの肩に回していた手をほどいた。ヒスイは肩をすくめる。首を回すと、ぱき、と小気味いい音が響いた。
「……ほどほどにしろよ」
そう言うティメオの声は、海風に運ばれ舞い上がってしまいそうなくらいちいさかった。ヒスイがそれに返事をするまえに、ティメオはさっさと皆のもとへもどっていく。ヒスイもそのあとを追う。
「達者でな、お前ら」
「お前もな栗鼠頭」「元気でやれよー」
「短い間だったけど、お世話になりました」
ティメオにつづいて、コーラルも別れの言葉を口にする。ティメオに絡む双子をまぶしげに見、それからヒスイとナデシコのほうに視線を向けた。
長い髪が風に舞う。ほっそりとした腕をさしだされ、その意図に気づいたナデシコが彼女の手を取った。きゅっと握りこまれる手のひら。きっとその手は今朝のようにあたたかい。
ナデシコの手を握り、人魚はとてもやさしく笑った。初めて甲板で彼女と出会ったときのことが思い返されるような、そんな笑顔だった。
「あなたたちの往く道が、しあわせなものでありますように」
告げられた言葉に、息をのんで──それから、ナデシコははにかむように笑う。
人魚に頷きを返す彼女の姿を、ヒスイはまぶしげに見つめていた。