夢のかけらは潮騒の音
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かのインダスト学院が建てられた島よりはるか南東、複数の海域を抜けた先に「その島」はある。属する海域のなかでは最も広く、周囲の島々との交易が盛んで人の行き来も多い。気候は穏やかであり人々の賑わいにあふれたその島こそ、「英雄」と名高きフェリオン=マギアの住まう島である──。
「これから向かうのはここ」
海図のうえに記された島をヒスイは指で示した。リビングのテーブルにはヒスイのほかにティメオと【九時】が座り、テーブルからやや離れた一対のソファに双子と【ビターオレンジ】、それからナデシコが腰かけていた。ソファの脇にはヒスイがつくった車輪付きの水槽に浸かるコーラルがいる。テーブルには紅茶の満ちたティーカップが湯気をあげて並んでいた。青い花が描かれたティーセットはナデシコのお気に入りだった。
ヒスイが示したのはモルゲンレーテと呼ばれる島だった。この島の北、高台にあたる部分にフェリオン=マギアの屋敷がそびえたち、彼の有する敷地の奥に【ネクタル・フォークロア】の本拠地がある。ナデシコはぼんやりと大理石でできた床のことを思い出した。ひっそり静かで薄暗く、絨毯のひかれていない場所はどこもつめたくてつま先がかじかんでしまいそうだった、あの屋敷の床のことを。
「……あそこはきっと、貴方がたがいたころからなにひとつ変わっていませんよ」
【九時】がつぶやく。今日も昨日までと同様にメイド服を着て、風呂でははずしていた仮面もいまはまた顔の半分を覆っている。ヒスイは【九時】のことばに片方の眉をあげたが、なにも答えなかった。
「……それで。モルゲンレーテについたらあとは作戦どおりに事をはこぶだけだけれど──」
「ええ。そのまえに、ひとつ島を経由するという段取りでしたね」
黒い袖につつまれた腕を伸ばし、【九時】がテーブル上にひろげられた海図を指でなぞる。短くととのえられた爪のさきが、なにもない海のあたりを指した。それはいまカーム・シアン号がただよっているあたりである。
「いま私たちがいるのがこのあたり──そして、モルゲンレーテはここ」
【九時】の指先が海図上の二点を動く。そうしてから、彼女はふたつの点のあいだにあるひとつの島のうえで指をとめた。
「モルゲンレーテの手前にあるこの島で、私と【ビターオレンジ】はこの船を降り、別の船で先に本拠地へと向かいます」
ナデシコのとなりでクッキーをかじっていた【ビターオレンジ】がぱっと顔をあげた。彼女の口の端からはらはら落ちるクッキーのかけらをあわててナデシコが皿でうけとめる。その正面では双子もまたクッキーをぱくぱく口にはこんでいる。海図をひろげ真面目な顔でこれからのことを語るテーブル側とは対照的に、ソファ側は気の抜けたティータイムといった様相だった。コーラルもまた水槽のへりにつかまって、優雅にティーカップをかたむけている。
「私たちは一応、いま任務で外出していることになっているので……貴方がたとともに本拠地に上陸するわけにはいきません。ですから一足先に屋敷へ行き、作戦開始まで組織内部の監視を続けます」
言う【九時】にあわせるように【ビターオレンジ】がこくこくとうなずく。その表情は真面目だが、頬はハムスターのようにふくらみ唇の端にはクッキーのかけらがついているものだから、やはり緊張感には欠けていた。
「上陸後は緊急の要件でのみ連絡をしますので」
「わかった」
ヒスイはうなずいて、片手に握った端末を振った。細い筒のようなそれはロール状の通話用端末であり、がらくたの部品を寄せ集めてヒスイがつくったものだった。端末をことんとテーブルに置いて、ヒスイはすいと視線を横に滑らせる。ヒスイの横に座るティメオはいつもどおり被り物をかぶったままで紅茶を飲んでいたが、横からの視線に気づいて「ん?」と首をかしげた。
「ティメオ」
「ん、俺か? なんだよ」
「お前たちはこいつらと一緒に手前の島で降りるといい」
一瞬、部屋を静寂が満たした。遠くのほうでこもったような船の排気音が聞こえた。ヒスイの脈絡のない台詞に、ティメオだけでなくコーラル、双子もメイドもそれからナデシコも、おどろいたようにヒスイを見る。この場全員からの視線を一身に浴びて、けれどヒスイは静かな眼差しをティメオに向けるだけだった。ややあって、ティメオが肩をすくめる。顔は見えないが、苦笑したような雰囲気が滲んでいた。
「……驚いた。察しが良くなったな、お前」
「もともと察しは良いほうだよ」
「嘘つけ」
薄く笑んで冗談めいたことを口にするヒスイに、ティメオも笑ってかるく肩を小突く。先刻の言葉とは裏腹に間延びしたやりとりに、「いやいやいや」と双子があわてて間に入る。ぶんぶんと首を振りながら、
「いやいやなにさなにさ」「なにふたりで談笑してんのさ」
「栗鼠頭船おりんの?」「てかお前『たち』って……」
ちら、とふたりはそろってコーラルに目をやった。水槽に浮かんだコーラルは唇を引き結び、少し困ったような顔をしていた。どうやら彼女にとって、まったく知らない話ではないらしい。
「ああ、ちゃんと俺から言ったほうがいいな」
ティメオは戸惑いをあらわにする双子のほうを向いた。首のあたりに余裕のある被り物ががこがこと揺れる。ボタンの瞳に彼の内心があらわれることはない。黒く艶のあるボタンはどこまでも無機質に、感情をうつさない。
「俺とコーラルは次の島で船を降りる」
だから、発された言葉に双子は口をつぐむ。表情がみえなくとも、その台詞が嘘偽りないものだと知れた。
「悪いけど、お前たちの計画の手助けはできない」
「……ごめんなさい」
と、コーラルが不意に口をひらいた。申し訳なさそうに眉根をさげて、ゆっくりと告げる。
「これからの道にわたしはきっと役立てない、それどころか足手まといになるわ」
彼女は自分の下半身をそっと見下ろした。なめらかな曲線をえがき、きらきらの鱗でおおわれた尾びれ。彼女はこの船の一員となってから、寄った先の島々で降りたことはない。この世界において、人魚という存在はあまりに稀少だった。彼女たちが表立って上がれる陸上は少なく、それはモルゲンレーテも同じである。それに、この先の『復讐』に彼女ほど似つかわしくない存在もいない。だからヒスイたちが立てた暗殺計画においても、彼女は関わらないことになっていたのだ。
けれどコーラルはそれを知って、そのうえで、それでも自分が皆の重荷になるかもしれない可能性を考えて──自分の行く道を決めたのだろう。彼女の表情から決意と覚悟がうかがえて、ナデシコはそう察した。付き合いはそれほど長くないけれど、それでも彼女という人魚は他者への思いやりが深い存在であることを知っていた。
「船を降りるのは、わたしが決めたことなの。ほんとうは、ひとりで降りるつもりだったのだけれど……」
「俺がコーラルをひとりにするわけないだろ」
いつの間にか立ち上がっていたティメオがコーラルの傍らに立って、彼女に言う。いつもおどけた振る舞いをする彼であるが、その声は落ち着いていて、自らが想う相手へのいつくしみがあった。
「……ありがとう、ティメオ」
コーラルはどこかさびしげに微笑んで、他の皆を見回す。彼女の動きにあわせて、桶のなかの水がわずかに波立った。
「力になれずごめんなさい。それから……今までありがとう。この船での毎日は、とてもたのしかったわ」
「……こちらこそ」
答えたのはヒスイだった。まっすぐにティメオとコーラルを見据える横顔がやけにまぶしく見えて、ナデシコは目を細めた。
「これまでの道にお前らがいてくれて、よかった」
普段のヒスイだったらおそらくは口にしないであろう台詞。あまりにも純粋に、真摯に感謝を示す彼に、ティメオとコーラルは少しおどろいて、それからうれしそうに笑った。