夢のかけらは潮騒の音
(2/4)

 暗くかげった視界のなかで、ぽつんと佇む影法師が見える。真っ白い光に照らされた影は、視認したとたんに背を向けて遠ざかっていく。背を追おうと一歩踏み出せば、足元にまとわりつくものがあって足を止める。そこには脱ぎ捨てられたフリルの山がある。ワイン色の生地に幾重にも黒いレースを重ねたシックなドレス、神経質なまでに刺繍の凝らされた黒一色のドレス。赤いバラの咲いたミニハット、つま先の尖った銀色のブーツ、つややかな光沢のある紺の手袋。夢のように地面に広がるフリルたちは、二度と持ち主を飾ることはない。
 足からドレスを振り払いながら、ふと、なにかを連想する。それはつめたい鉄の感触。そして灼けるようにあつかったひとしずくの、
「──、」
 ぱち、と目をひらいた。ぼやけた視界にうつる、色褪せた天井。しばらく無為に天井を眺めて、ヒスイはゆっくりと身を起こした。
 カーム・シアン号、ヒスイの自室である。簡素なベッドとサイドテーブル、物書き机に本棚、雑に物を押し込んだ箪笥、それからがらくたの積みあがる作業スペース。こんなものたちで彼の部屋は構成されている。ヒスイの部屋は物が多い。整理整頓やら掃除やらが苦手なのだ。
「………」
 胡乱気に瞼を擦り、ベッドから足を下ろしてのろのろと靴を履く。眠っていたような気もするし、まどろんでいただけのような気もした。今もなお眠気らしき気怠さが全身を覆って、時たまこめかみのあたりがつきりと痛む。けれどそれはいつものことだ。ヒスイはもともと不眠症ぎみであった。眠れたように思えても熟睡とは程遠く、夜中に目が覚めることもめずらしくない。この症状がずっと続いていることに焦りや不安こそなかったが、日中やってくる眠気や倦怠感には億劫さを感じていた。一挙一動に遅れてやってくる慢性的なだるさはわずらわしい。
(……それにしても)
 なにか、夢をみていたような。自分自身がなにかを為すたぐいのものではなくて、まるで映画をみているように、ただ映し出される光景を眺めるだけの夢。あれは映画だったのか、もしくは自分が過去に見聞きしたものだったのか、どうにも思い出せなかった。そもそも自分が夢を覚えていること自体めずらしく、ひとり自嘲するように笑う。暗い室内で自分の吐いた息の音のみが響くのは、なんとも虚しい。
 顔を洗い身なりをととのえ、刀だけ手にして部屋を出る。廊下は薄暗くしんとしていた。潜水艦でもあるカーム・シアン号の廊下の端にはいくつもパイプやら電線やらが走り、天井から吊り下がるランプは今は申し訳程度の光しか放たない。体感的にはおそらく早朝だろうか。ヒスイとティメオ、それから双子は毎夜不寝の番を交替で行っていて、きのうの当番は双子だったはずだ。
 かつん、かつん、というヒスイの靴の音が響く。空気はひんやり静謐につめたく、耳鳴りが聞こえそうなくらいの静寂が広がっていた。五感は奇妙なまでに醒めているのに、思考だけがままならない。ほんの一瞬前まで自分がなにを考えていたのか、なにを思っていたのか、ふとした拍子に思い出せなくなる。寝起きはいつもこう、ぼんやりとしていけない。わかってはいるが、今更どうにかしようとも思えない。
 特に意識しないままに、足はキッチンへ向かっていた。コーヒーを飲めば、このドブのような気分もいくぶんかましになるだろう。それに──そこにはきっと、彼女がいるから。
 キッチンとダイニングに繋がるドアを握って、ひらく。かちゃん、と音をたててドアノブが回り、ひらいたドアの隙間から光が漏れだしてくる。ヒスイはわずかに目を細めた。光は中にだれかがいることの証明だった。ヒスイの予想通りに。
「──あ、ヒスイ。おはよう」
 キッチンにいたのは、ナデシコだった。キッチンのカウンター越しに目が合う。普段下ろしている髪は後頭部で結いあげて、パステルイエローのエプロンをつけている。自分の姿をみとめた彼女の瞳がやわらかく細められるのを見ると、なんとなく面映ゆい。こそばゆくてなんだか照れくさい、というか。穏やかな顔をするナデシコが好きだった。喉よりもしたのあたりがじんわり滲むような感覚には、もうずっと前から慣れ親しんでしまった。
「……おはよう」
 そんな感覚はいつも通り表に出さず、後ろ手でドアを閉めるとキッチンのほうに歩き出す。なにやら甘い香りがすると思えば、どうやら彼女はフレンチトーストをつくっているらしい。手袋をした手に菜箸を握り、液に浸したパンを器用にひとつずつひっくり返している。ボウルにはサラダ、鍋にはスープも見えて、今日の朝食のメニューがだいたい予想できた。
 それにしても──ナデシコはほんとうに、まめである。彼女の横に立ち、ポットで水を計りながら、ヒスイはそんなことを考える。
(……前はあんなにへたくそだったのに)
 それがこうも手慣れた動作でこなすようになったのは、ひとえに彼女の努力によるものだろう。派手に焦がして墨と化した炒め物を前にして、困ったように眉を下げていた昔の彼女を思い出す。あの頃の彼女は卵すらうまく割れなかったし、包丁を握る手つきもぎこちなくて危なっかしかったものだ。昔日の姿を思い出し、思わず笑みがこぼれる。するとナデシコがふしぎそうにこちらを見たので、口もとを隠す。
「なに笑ってるの」
「……いや、別に」
「……そう?」
 うなずいたものの、ナデシコは釈然としない顔のままだった。ちらちらとこちらに目をやるナデシコと過去の彼女の姿が重なって、また笑ってしまいそうになり視線をそらす。あからさまな誤魔化しにナデシコはますます怪訝そうな顔をするが、ヒスイは気にしないふりをしてコーヒーメーカーに水と粉を入れ、スイッチを押した。知らんぷりをしているとやがてナデシコも追及するのをあきらめて、自分の作業にもどったようだった。それを横目で確認しつつ、食器棚から自分のカップを取り出し、指先でもてあそびながらコーヒーが沸くのを待つ。
 立ち尽くしているとまた気怠さがよみがえるようで、気を紛らわせようと手のなかのカップをぼんやり見つめた。カップの表面では不細工な顔をしたペンギンがひっくり返っている。買ってきた双子によればこのペンギンの目がヒスイによく似ているとのことだが、ヒスイ自身からすればとんだ見当違いである。確かに自分はあまり目つきがいいほうではないけれど、こんなに世すべてを恨むような目はしていない、と思う。
 そんなふうにぼうっとしていると、ふいにナデシコが顔を覗き込んできた。大真面目な顔に面食らって、反射的に彼女の顔を見つめ返した。長い睫毛がエメラルドグリーンの瞳を縁取っている。ナデシコはしばらくなにかをさぐるようにヒスイの顔を凝視したあと、心配そうに首をかたむけた。まとめきれていない髪のひと房が肩をすべるのが見えた。
「……眠れてないの?」
「……いつも通りだよ」
 心配するような声に、つとめて平然と聞こえるように答えた。そう、いつも通りだ。自分があまり眠れないこと、だからカフェインに頼ること、起き抜けはこうして意味も終わりもとりとめもない考え事にぼんやりすること、そのすべてがいつもの通り。
 けれどナデシコはヒスイの身を案じるように、ほんの少し眉をさげた。なにかもの言いたげなようす。その視線が自分の顔とコーヒーメーカーを行ったり来たりするから、ヒスイは彼女がなにを言おうとしているのか察した。きっとカフェインはひかえたほうがいいのでは、などと考えていて、けれどそれを指摘するべきか迷っている。ヒスイにはナデシコの考えることがいつもなんとなくわかった。
 ティメオなどは、ナデシコの感情の起伏を表情から読み取るのは難しいと言っていたが、ヒスイからするとそんなことはまったくなかった。出会った頃の彼女ならばともかく、今のナデシコならば考えていることがなんとなく伝わってくる。もう、それなりに長い付き合いになるからだろうか。
 ともあれ、なにか言いたげな彼女にヒスイはゆるく首を振った。ナデシコが心配するようなことはなにもない。
「別にいい。いまさらだし……それに、今はのんびり寝てる場合じゃない」
 自分のこの症状はずっと前からつづいているものだ。ヒスイ自身が既にこれに慣れきっているから、いまさらどうにかしようとも思わない。そういった意味をこめて言うと、けれどナデシコは余計に眉をさげる。
「でも……ヒスイの体調が万全であることも、必要なことでしょう。私は……ヒスイに元気でいてほしいよ」
 そう言われて、言葉を返そうとした口を閉じる。いつものようにこれ以上追求されたくないから黙っている、のではなくて、ナデシコがほんとうに自分のことを憂慮しているのがわかったからだ。彼女にそういう顔をされると、どうしていいかわからなくて困ってしまう。ヒスイはこういうときなにをいえばいいのかわからない。ナデシコが自己犠牲的なまでにヒスイに尽くすような生き方をしているのだって、ほんとうはやめさせたい。けれどナデシコはへんなところで強情なので、ヒスイの窘めが功を為したことはなかった。
(──それに、)
 それに──そんな顔をされるとあのひとのことを思い出してしまうから、余計に困る。
「どうすれば寝れるようになるのかな」
 ヒスイの考えをよそにナデシコはそうつぶやいて、熱したフライパンにバターをひとかけら落とした。じゅわ、と音をたてて溶けるバターをくるくる回して、液に浸したパンをならべていく。なにやら真剣に考え始めたらしい彼女から視線をはずし、ヒスイはコーヒーメーカーに向き直った。コーヒーメーカーから発されるこぽこぽ泡立つような音に耳を澄まして、もう一度ナデシコのほうを見やる。彼女はフライパンに向かったまま、唇をとがらせて考えをめぐらせているようだ。ととのった横顔、髪をまとめていることであらわになった耳朶にはちいさなピアスが輝いて、その肩は丸く華奢である。
 バターとコーヒーの香りを一度に吸い込んで、ヒスイはふわりとあくびを漏らした。眠気で思考の回転速度が鈍い。この状態でティメオの相手をするのは御免だな、などと考えながらナデシコを眺めていると、ふと思考の一片が前触れなく頭に浮かんで、熟考を介さずにつるりと唇から滑り出た。
「ナコと一緒なら眠れるかもしれないけど」
 思いがけず自分の口から転がり落ちた台詞に、しばらくヒスイ自身も気づいていなかった。いつも通りぼうっとしながら壁やらなにやらを見つめて、それから、あれ今自分の口がなにかを勝手に口走ったような、と鼓膜がとらえたはずの音声をもう一度再生し直して、
(…………?)
 ヒスイの思考回路が大量のクエスチョンマークをたたき出した。
(…………いま自分はなんて言った?)
 なにかこう、素面ならばけして口には出さないような、いくら寝起きで眠くて怠いからといって表に出すべきではないようなことが漏れ出た気がする。さあと顔のあたりから血の気とともに眠気も下のほうへ落ちていって、やけにクリアになる脳裏にはなぜか爆笑するティメオの姿が浮かんだ。とりあえずその栗鼠頭には拳を一発食らわして、聞こえていただろうか、とぎこちなくナデシコのほうに顔を向ける。
 ナデシコは手を止めて、きょとんとヒスイのことを見上げていた。それはどこか幼くて、無垢ともよべる表情。思わずどきりとした。穢れのないおおきな目を瞬かせて、彼女は首をかしげた。
「そんなことでいいの?」
「えっ」
「えっ?」
 さらに首をかしげられて、ヒスイは言葉につまった。自分はなにも悪いことをしていないのに、なぜだか追い詰められたような心地にめまいがする。どうしてこうなったのか、発端は自分のせいだという自覚があるので黙ってやり過ごすわけにもいかない。目をそらすも、ナデシコの視線が頬に突き刺さる。それになにより、ヒスイ自身が自分の口走った内容に羞恥を覚えていた。それは決して心にもないことではありえない。その事実が、彼の羞恥心に拍車をかけている。
「……ナコ、今のは」
 冗談だから、という自分の声の終わりのほうがかすれて、ヒスイはいたたまれなさに軽く死にたくなった。瞼の裏ではいつの間にか復活を遂げたティメオがまたも大笑いしながら転げまわっている。ほかの誰でもない自分自身の感情に振り回されて、こんなに自分が使い物にならなくなるなんて思いもしなかった。舌打ちでもしたい気分だ。これでは昨日ティメオと話したような、自分の感情をありのまま伝えるなんてこと、とうてい不可能なんじゃないかという気すらしてくる。
 ナデシコはしばらくふしぎそうな顔をしていたが、ヒスイの耳の端やら目尻やらがあかくなっていることに気づくとぱちぱちと何度か瞬きをした。そしてややあってから、
「…………えっ」
 ぱっ、と赤面した。どうやらなにかを理解したらしい。しろいかんばせが耳の先まであかく色づいて、困惑と羞恥で潤んだ瞳がせわしなく揺れる。ふだんつくりものめいた精巧な顔を崩さないナデシコであるからそんな表情はめずらしく、思わずヒスイもおどろいて彼女を見つめてしまう。ナデシコが唐突に赤面したのは昨日のコーラルらとのやりとりを思い出したからなのだけれど、ヒスイがそれを知る由もない。おどろいたヒスイの顔も、また同じくらいめずらしかったのだが。
「あの、私、その」
 ナデシコはまっかな顔であわてたようにうつむくと、ヒスイの視線から逃れるべく数歩うしろに下がろうとする。視線をどこにやればいいかわからないのかうろうろと視線をさまよわせるようすがいじらしく、遠ざけたくなくて咄嗟にヒスイは後退する彼女の腕をつかんだ。
 肘よりも少しうえのあたりをつかまれて、ナデシコは「ひえ」と素っ頓狂な声をあげた。揺れる双眸と紅潮した頬に、ぎゅっと肺のあたりが引き絞られるような感覚を覚える。かわいらしい、と思った。これがいとおしいという感覚だと、無意識が告げる。
「ナコ」
 だからヒスイはナデシコの名を呼んだ。先ほどの意趣返しではないが、彼女の顔を覗き込む。伏せられた睫毛がぴくんと動いて、潤んだ瞳がそっと自分のほうを向く。朝露に濡れたようなエメラルドの瞳の中には自分の姿がうつっている。ナデシコは口をへの字にして、困ったような顔をしていた。頬は林檎のごとく薄紅色に染まっている。
 知らず、腕がこわばる。自分の鼓動がずっと遠くに聞こえる。唇がかわいて、指先だけがつめたい。今だけは眠気や倦怠感などどこにもない。彼女に伝えたいことがしんぞうのあたりから山のようにこぼれだす。堰を切ったようにあふれてくる思いを端から言語化しようと、ヒスイは唇をひらく。言うべきことなど、とうの昔に知っていた。
 ありがとう、とそう言って彼女がはじめて微笑んだあの日から――ヒスイはナデシコのことが、好きだったのだから。
「俺は────」

「徹夜明けの一杯!」「トマトジュースに決まり!」
 ──と、勢いよくダイニングのドアが開け放たれて、叫び声とともに双子が部屋に飛び込んできた。そろいのオーバーオールにキャスケット帽。元気よく片手をかかげてやってきた双子は部屋の奥に赤い顔をしたヒスイとナデシコの姿を認めると、そろってぴたりと動きを止めた。
 ざんばら前髪の端から覗く鋭い眼光がふたりをまじまじと見つめて、ナデシコの腕をつかんだままのヒスイも腕をつかまれたままのナデシコも石像のように動かない。この場にいる全員がフリーズするなか、最初に動いたのは双子だった。ふたりはそろって唇をわななかせると、まったく同時に
「「出歯亀!!」」
 と叫んでぴゃっと飛び上がり、電光石火の勢いで部屋を飛び出していった。ねずみ花火のごとき双子のようすに呆気にとられ、ふたりは部屋にのこされる。思わず顔を見合わせて、現状を先に思い出したヒスイがぱっと腕をはなした。感情とは難儀なものである。なにか言おうとするもことばにならず、目元にさした赤みも消せず、気まずさに視線をそらす。ナデシコも耳の先まであかく染めたまま、気恥ずかしさにうつむいた。
 キッチンにはなんともいえないなまぬるい空気が流れた。そんななか、コーヒーを沸かし終えたコーヒーメーカーのランプだけが我関せずというようにちかちかと点滅していた。