その温もりを御大切に
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「…………はあ?」
女性陣が皆風呂から上がり、女湯の時間が終わり男湯の時間となった浴室。先ほど同じ場所で似たような会話がなされたとは露知らず、ティメオに問いかけられたヒスイは眉をひそめた。長めの前髪から垂れた雫がぽちゃん、と湯船に落ちた。
あからさまに怪訝な顔をされ、それでもティメオは笑っていた。さすがに浴室であるからか、その頭にいつもかぶっている栗鼠の被り物はない。癖のある金髪に紫の瞳をした、育ちのよさそうな青年がそこにはいた。頭には畳んだタオルをのせて、湯船のふちに腕をのせてけらけらと笑い声をあげている。
「……なんでそんなこと訊くわけ」
「なんとなく」
「……」
悪びれもせずに答えるティメオに、ヒスイはため息をつく。けれどこの男がこういう性格をしていることを、ヒスイはようく知っていた。ふたりは初めてインダスト学院で会ったときに一度だけ殴り合いの喧嘩をして、それからはずっと気の置けない関係を続けていた。ノリが軽く面白さを求めるティメオと、無愛想で黙々とした作業が好きなヒスイ。ふたりはあまり似ている類の人間とは言えなかったが、なかなかどうして馬が合った。お互い触れられたくない過去があるという点で共通していたからだろうか。
「お前だってわかってんだろ? ナデシコはわかりやすいからな。お前のこと恩人だなんて言ってるけど、あれはお前のこと好きだよ」
そういう意味で、さ!
言って、ティメオは濡れた前髪をかきあげた。その眼にうかぶたのしそうな色を隠そうともしない。ヒスイは目をそらして黙っている。
「それなのにお前、かいがいしく料理も洗濯もしてくれて、文句も言わずお前の復讐に付き合ってくれるナデシコのこと、まさか好きじゃないとか言わないよな?」
「……………………好きだよ」
重々しいため息を吐いてから、根負けしたヒスイはそう口にした。とたんに笑みを深めたティメオにさらにいやそうな表情をうかべる。けれど、言ったことはまぎれもない彼の本心だった。
ヒスイにとってナデシコは、いつの間にか隣にいることが当たり前になった存在だった。はじめてあった頃の彼女は今よりもずっと傷が多く表情に乏しく、そのくせやたらと豪奢な衣装を着せられて、まるで人形じみていた。彼女がひとりきりで立ち尽くしているのがあんまりはかなげで今にも折れてしまいそうで、ほうっておくことなんてできなかったから、あの日ヒスイは彼女に触れたのだ。
彼女が自分の隣でしずかに微笑むようになったのは、いつからだっただろうか。それがきれいでまぶしくて、息が詰まりそうなくらいのいとおしさを自覚したのは───いつからだったろう。
「ふーん? 具体的にはどのあたりが好きなわけ?」
にやにや笑うティメオに尋ねられ、ヒスイは黙り込む。答えられないからではない。むしろ、問いに対する答えなど彼の胸の中に山ほどあった。
彼女の瞳が陽光の下できらめき、あたたかな海風に桜色の長髪が撫ぜられるのを見ること、こちらをたしなめるような口調で自分の名を呼ぶこと、たまになにもないところで転ぶたびに恥ずかしそうに眉をさげること、料理を褒めると照れたようにやわらかく笑うこと、そのどれもが好きだった。
月並みな表現がゆるされるなら、これから先もずっと彼女の隣にいて、ゆるやかな時を共にしたいとさえ思った。
黙るヒスイの顔をティメオが覗き込む。ふだん日の下に出ない紫の瞳が獲物をとらえてたのしそうに光る。
「なあ、ひとつくらい教えてくれたっていいだろ?」
「……いい加減にしろよお前」
けれどその感情のどれも、目の前の男にそうやすやすと話すものではない。ティメオは確かに友だったが、まだ相手に伝えてもいない恋慕を懇切丁寧に話してやるかというとそれはまったく別の問題である。自分を睨むヒスイの視線をティメオは飄々と受け流した。
「つれないやつだな~。俺のこの恋バナがしたい気持ちを汲んでくれよ」
「…………」
ヒスイは無言をもってティメオに拒否の姿勢を取る。面倒くさくなると対話をやめるのがヒスイの主張のしかただった。しかしそれなりに付き合いの長いティメオは、そんな拒否の姿勢などかるがると飛び越えていく。
「好きなんだろ? じゃあナデシコにそう言えばいいのに」
「……俺にその資格はないよ」
低い声でつぶやく。そう、自分にそんな資格はない。彼女の生き方を縛る自分には。
ヒスイは復讐を選んだ。親の仇など無視して、組織も知らないくらい遠くのどこかの島で細々と暮らす選択肢だってあった。けれど、そうはしなかった。世間から英雄と呼ばれるフェリオンの情報は学院にいても入ってきた。新聞で彼の名前を見るたびに、ヒスイは自身の殺意を思い出す。忘れられるはずもなかった。ヒスイは組織に引き入れられてからずっと、こころの内側にひそむ仇への憎悪を殺さずに生かしてきた。それを今さら、組織から離れたくらいで消すことなどできはしない。
フェリオンを殺すと告げたとき、ナデシコはおどろいたようすも見せなかった。ヒスイを咎めもせず窘めもせず、澄んだ瞳でヒスイをまっすぐに見つめて、「わかった」とうなずいたのだ。
『私はヒスイについていくよ。ヒスイのために、生きるって決めたから』
迷いなんてひとかけらもなくそう言い切った彼女。その言葉にありがとうと返したのが正しかったのか間違っていたのか、ヒスイはいまだにわからない。ナデシコをふたたびあの男に会わせたくはなかった。だからつれてくるつもりもなかった、それなのに、彼女が自分とともに行くと言ったとき───ヒスイは、うれしかったのだ。彼女が自分のそばにいたいと言ってくれることが、どうしようもないくらいうれしかった。あさましくもそんな感情を覚えて、彼女の同行をゆるしてしまった。それはヒスイ自身のエゴでしかないとわかっていたのに。
それだけではない。自分が彼女に想いを伝える資格がないのは、それだけではないのだ。ナデシコは知らないだろうが、ヒスイは、彼女の傷を───
「おら」
「!?」
ばしゃっ、と突然顔に湯がかかり、ヒスイの思考はばらばらと霧散する。反射的に腕で顔をぬぐって湯の飛んできたほうを見ると、ティメオは怒ったように眉を立てて口を引き結んでいた。
「なにを───」
「資格? 資格なんて誰が決めんだよ」
文句を言いかけて、語気の荒い声にさえぎられる。
「神様か? お前そんなもの信じる性質じゃないよな」
ティメオが怒っている、その理由にヒスイはすぐさま勘づく。
彼は過去に有していた自分の立場も権力も義務も資格も、なにもかも捨ててきた。ヒスイはそれを間接的ながら知っていた。曰く───彼は、いやになったのだ。他者から決められたそれらの事柄に。
「資格権利義務立場───そんなの、己で決めてこその人生だろ」
運命を自らの手で変えんとする青年は、そう言い切った。強い意志をやどす瞳に射抜かれて、ヒスイは言葉に詰まる。ぽた、ぽた、と髪からしたたる雫が視界を縦に切り裂いていく。それはあの日、ヒスイが組織を抜けると決めたとき、己に課した決意とよく似ていた。
ふ、とヒスイのうすい唇の端から吐息が漏れた。ため息ではない、彼はわらっていた。いつものように皮肉混じりではなく、自分へのあきれと友への感謝を混ぜたような。
「……そうだな、悪い」
ヒスイの謝罪に、ティメオは「わかったんならいい」と言ってからりと表情を変えた。先ほどまで覗かせていた怒りはどこへやら、またも面白がるような、彼の通常運転に戻る。ティメオは頭のタオルをぺそっと載せ直した。
「ま、お前がそう思うまでになにがあったかなんて聞かねえけど。いつまでもそうやって現状維持選んで後ろ向いてんなら、俺がお前を殴るから」
「は?」
意味がわからずヒスイはまたも怪訝そうに眉根を寄せる。
「なんで殴んの」
「あったりまえだろ! コーラルはお前とナデシコがくっついて、いまよりずっと幸せになることがお望みらしいから」
ティメオは悪びれもせずにそう答えた。自身の恋人(人魚)のことを語るとき、ティメオはほんの少しだけやさしい声をする。ヒスイはそれになんとなく気づいていた。彼女を尊ぶような、丁重に扱うような、そんな声音。
「いつまでもあいつにお前らの心配させとくわけにもいかないだろ」
俺もお前のこと殴りたくないし、という台詞は無視した。あまりにもみえみえの嘘である。その必要があれば、彼が迷いなくともすれば嬉々としてヒスイを殴るのは目に見えていた。
ヒスイはまた、ため息をつく。しかしその息は笑いをこらえたような雰囲気を隠せていない。彼は自覚していた。ティメオの言葉に、自分のこころが少なからず動かされたことに。
「………お前達ふたりとも、そろいもそろっておせっかいでお人好しで───似た者同士で、お似合いだよ」
だからヒスイはそんなことを言ってみせた。言われたティメオは目を瞬かせて、「そりゃどうも!」と笑った。