その温もりを御大切に
(3/4)

「【刀鍛冶】とおまえはレンをアイする間柄なのだ?」
「…………え?」
 めのまえには【ビターオレンジ】の至極まじめな顔がある。ずずいと前のめりになった彼女とナデシコの距離はちかい。まるいどんぐりまなこに見つめられ、ナデシコはちょっと身を引きつつ言われたことばの意味を考えて───意味が分からず、疑問符を発した。

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「……あ、おふろ」
 フェリオン=マギア暗殺の作戦会議を終えて、カップを洗っていたナデシコはふとそうつぶやいた。
 ヒスイはついさきほど、メイドふたりに空き部屋を案内するようナデシコに頼んで部屋を出ていった。メイドふたりは今は所在なさげにソファに座ってきょろきょろしている。ふたりはナデシコに手伝いを申し出たが、ナデシコは洗い物くらいで他人の手を借りることもないと断ったのだ。
「? 何か言いましたか?」
 ナデシコのつぶやきに【九時】が振り返る。ナデシコは最後のカップをラックに置いて、蛇口をきゅっと閉めた。いつもの革手袋のうえからはめていた洗い物用のゴム手袋をはずし、これも水気をきってラックに干しておく。
「おふろに入らなきゃ、と思って……」
「風呂!」
 【ビターオレンジ】がナデシコのことばに目を輝かせた。
 この船───カーム・シアン号には浴室がある。それなりに広く、浴槽もひとが五人足を伸ばして浸かってもへいきなくらい広いものがひとつ。船を用意する際ヒスイに要望があるか訊かれ、ナデシコが遠慮がちに頼んだうちのひとつが広い浴室だった。ナデシコは風呂がすきだった。
 そんな浴室だが、毎日女湯の時間と男湯の時間が設けられている。大きな風呂のお湯の温度を長時間保つのにはコストがかかるため、それぞれの時間はわりと短めに区切られていた。ナデシコは今日の女湯の時間があと一時間ほどで終わることを思い出したのだった。これを逃せば、今日はシャワーで済ませることになってしまう。
(今日は外にも出たし、できれば浴槽に浸かりたい)
 でも部屋に案内するよう頼まれているし、さすがにふたりを放置していくのも……などと考えつつ、ナデシコは【ビターオレンジ】に向き直る。その眼がいかにも興味津々! というようにきらきらしていたから、ひとつ提案することにした。
「あなたたちも入る?」

「───それじゃあ、この島には武器密輸の契約更新のために来ていたの?」
「ええ。私たちは基本的にそういった取引系の任務を与えられることが多いので」
「ふうん……。船は?」
「ここまでは隣の島からの定期便で来たので、帰りも同じようにする予定でした。特に重大な任務というわけでもありません、組織への定時連絡も必要ないですし、もどるのが少々遅れても問題はないかと」
 脱衣所である。
 大きな鏡と洗面台、数脚の椅子、タオルやドライヤー等が仕舞われた棚、掃除用具の入ったロッカーがあり、それから脱いだ衣類を入れておく籠が数個、棚の上に置かれている。壁の向こうからは、船内特有のゴウン、ゴウン……というなにかが動く音が鈍く響いていた。
 ナデシコはあいづちをうちながら髪に差しているピンを抜き、着ている服をするする脱いでいく。
「それにしても……いいのですか? 私たちまで」
「いいよ、ついでだから……入りたくないなら、べつだけど」
「いえ、今日は外で乱闘もして砂埃をあびたので、正直助かります……」
 【九時】は胡乱気にとおい目をした。ヒスイに地面にのされた時のことを思い出しているらしい。そのうしろで【ビターオレンジ】はるんるんと鼻歌を歌いながらぽいぽいメイド服を脱いでいる。頭にまだカチューシャが残っているのがこどもっぽく、かわいらしい印象をよこした。
「気にしないで。ヒスイがあなたたちと協力することを決めたのだから、私はそれに従うだけ」
「……」
 ナデシコは革手袋をはずし、手足に巻きつけた包帯を慣れた手つきでほどく。【九時】はナデシコの腕をちらりと見て息をのんだが、なにも言わなかった。包帯の下から見えた傷痕におどろいたのかもしれない。幾重にもかさなり、ひきつりのたうった落書きのような傷痕。見ても楽しくはないことを理解しているから、ナデシコはふだんこれらをかくすために包帯を巻いている。黙った【九時】になにをいうこともなく、ナデシコはちいさなタオルや櫛、髪留めなどを持って先に浴室へのドアをあけた。
「───あらあら、あら! いらっしゃい!」
 ドアをあけると、中から湯気とともに声がした。浴室の壁で反響しふだんとはちがった響きで聞こえてくる声、その主は奥の浴槽の中にいた。
「コーラル」
「はあいコーラルですよ~」
 にこにこ微笑みながらこちらに手を振るのはコーラルだった。ゆるやかなウェーブを描く菜の花色の髪は今は頭の上でゆるくまとめられ、まっしろなうなじが室内灯に照らされている。浴槽をひとりじめしていた彼女は、ちゃぷりと水面を揺らして浴槽のへりにつかまった。
「今日はバニラミルクの香りなの~」
「あまい香りするね」
 言いつつ、シャワーでバスチェアを流して腰かける。立ちのぼる蒸気をながめながら髪を梳かしていると、ドアがひらいてメイドふたりが姿を見せた。さすがに入浴の際ははずすのか、【九時】の仮面がはずれその下の素顔があらわになっている。特にめだつ傷もないきれいな顔をなんとなく見ていると、【九時】は奥にいるコーラルの姿に目をとめてすぐに気まずそうな顔をした。
「あなた……」
 コーラルはきょとんとして、それからようやく目の前に立っているのが仮面をはずした【九時】であることに気づいたらしい。あっ、とちいさく声をあげて、【九時】の姿を見あげる。ふたりの視線が交わり、【九時】が申し訳なさそうに眉根をさげてうつむいた。
「……さきほどは、その、……申し訳ないことをしました」
「……いいえ、謝らなくていいわ」
 謝罪を口にした【九時】に、しかしコーラルは微笑んだ。首を横に振る。
「あなたもきっと、だれか大切なひとを守るためにああしたのでしょう?」
「……それは、」
「あなたの行為をわたしはゆるします」
 うつくしい笑みだった。純粋で慈愛に満ちた、限られた存在にしかうかべることのできないたぐいの笑顔。コーラルにはそんな笑顔がよく似合った。
「だからこの話はおしまい。はやくからだをあたためた方がいいわ、風邪をひいてしまうもの」
 そう言ってコーラルは細い指先で洗い場を示した。【九時】はまだなにか言いたげに口をひらいたが、やがてそっとことばを呑みこんで眉をさげてわらった。
「……はい」
 ふたりのやりとりを見守っていた【ビターオレンジ】であったが、会話が無事に終わったことを見届けると笑顔で駆けだして、はやばやとナデシコのとなりに座る。そして石鹸類のとなりに置かれたひよこの玩具が目についたらしく、手にとって目をまるくした。
「ひよこ!」
 ひよこのつぶらな目と自らの目をあわせて首をかしげる【ビターオレンジ】。お団子をほどいた黒髪の先がむきだしになった肩にはりついている。ひよこは双子がいつのまにか買ってきたものだ。あのふたりはいまだに性別が謎であるが、ふたりは風呂掃除を担当しているために入浴のタイミングがいちばんさいごだった。いまごろはさきほどまでのどたばたなどすっかり忘れ、ナデシコがきのう焼いたクッキーの残りをつまんでいるのではないだろうか。
 メイドふたりにシャンプーやリンスの位置をてきとうに教えながら自分のからだを洗い終えて、ナデシコは桜色の髪をてばやくまとめ立ち上がる。ぺたぺたと床を踏んで浴槽に歩み寄り、そっとつまさきからお湯に浸かった。あたためられる指先がきしり、ときしむような錯覚。ふ、とゆるやかに息をついて、湯のなかで曲げた膝をかかえてつまさきに触れる。
 そうしているとコーラルがそばまで泳いできて、ナデシコのとなりで器用に座った。尾びれのさきが一瞬だけ水面を切るように浮かんで、すぐに沈んでいく。
「あの子、名前はなんていうの?」
「あの子?」
 首をかしげると、コーラルはまだ洗い場にいるふたりのほうを見やって【九時】をそっと指さした。
「あの、生真面目そうな子。さっきは仮面をつけていた……」
「えっと……」
 ナデシコは少し回答に困った。水滴の垂れる前髪をもちあげて、考えながら答える。
「……私もその、あだ名しか知らなくて」
「あだ名?」
 コーラルはふしぎそうに眼をぱちぱちとさせた。なんと説明するべきか。ナデシコは湯気が吸い込まれていく天井をみあげて頭をなやませる。と、からだを洗い終えたらしい【ビターオレンジ】が浴槽に入ってきて、ざぶんと波をたててナデシコのとなりに腰を落ち着けた。ナデシコはコーラルと【ビターオレンジ】にはさまれるかたちになる。【ビターオレンジ】はナデシコの顔をのぞきこむと、にこにこと人がよさそうにわらった。
「感謝感激雨あられ!」
「え?」
「おいしい紅茶、あったかいお風呂。好待遇、やさしさの表れ! これは感謝に値するのでありがと!」
「えっと……どういたしまして……?」
 ふしぎなしゃべり方をする【ビターオレンジ】に戸惑いつつもナデシコはうなずいた。勢いに押されながら彼女の頭のうえに乗った先ほどのひよこをみあげていると、「アッ」と【ビターオレンジ】が声を上げた。
「わたし【彼岸花】に質問アリ、尋ねてもオーケー?」
「……? かまわないけれど……」
 ナデシコが首肯すると、ずずい、と【ビターオレンジ】がナデシコに顔をちかづけた。まん丸の双眸が至近距離で瞬いて、ナデシコは少し背をそらす。背後でコーラルもなんだろうというふうにこちらを見ている気配がした。【ビターオレンジ】は至極まじめに、ナデシコに質問を投げかけた。
「【刀鍛冶】とおまえはレンをアイする間柄なのだ?」
「…………え?」

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 ───そして話は冒頭にもどる。
「な……なんでそんなこときくの」
「ズバリさっき会ったときから確信! 愛すなわち偉大ナリ!」
 動揺しつつ質問を質問でかえすと、【ビターオレンジ】はためらうことなくそう答える。言い切る彼女にナデシコが唖然としていると、うしろにいたコーラルが目をきらきらさせながら話に入ってきた。嫌な予感。
「そう、わたしもそうだと思っていたの! ねえ、やっぱりそうなんでしょう?」
「ち、ちがうよ」
「エッ!?」
「そんなはずないわ!」
 首をふるナデシコにふたりは信じられないと更に身を寄せてくる。ナデシコは押され気味になりつつ、視線をそらす先を見つけられない。いつのまにか【ビターオレンジ】の頭から落ちたひよこが我関せずとばかりに水面をただよっているのが視界の端にうつった。
「では未確認の双方向、言葉に出さないそれが美徳というアレソレ?」
「あっ、そういう……ねえナデシコ、あなたヒスイのことすきなのよね?」
「えっ」
 ひよこを目で追いかけていたナデシコはことばに詰まった。当然のように投げかけられる問いに脳がうまく対応しない。唐突に理解する、ここには恋愛脳の人間(と人魚)しかいないことを。右手には黒曜石のような瞳をきらめかせる【ビターオレンジ】、左手には菜の花色の瞳でじーっとこちらを見つめるコーラル。逃げ出したいが、ふたりはナデシコが答えるまで逃がしてくれそうにない。逃亡は早々にあきらめて、ナデシコはこの場を濁すための回答を考えながら口をひらいた。
「……ヒスイは私の恩人だから……私はその恩をかえしたいの。彼のちからになれればそれだけで、いいの」
「フムフム」
「つまり恋ね」
 わかるわかる、とうなずくふたり。ほんとうに初対面なのかと問いたくなるほどに息のあった動きをする彼女らをほんのり恨みがましい目で見つめ、はあ、と嘆息して曲げていた膝を伸ばす。水中の動きは緩慢だ。液体がこちらによこす抵抗感はどこか心地いい。まるい膝を撫でながら、ぼんやりと考える。
 すきとか、恋とか。そんなふわふわしたお菓子みたいな、夢みたいな単語を自分たちの関係にあてはめて考えたことなんて、なかった。あの現世から切り離された暗がりでナデシコが唯一みた夢が、ヒスイだったから。
(……私が、ヒスイを)
 でも───でも、ヒスイをいとおしいと思う、その感情には確かに心当たりがあった。落ち着いた声音で名を呼ばれるとき、ぬるい温度の指先で触れられたとき、海色の瞳を細めて笑う姿を目にするとき、うたた寝する彼の眉間のしわをそっと解すとき。心臓のあたりがあたたかく、やわらかく唇を食んで微笑みたくなる感覚、この先何度も同じ情景がおとずれればいいのにと祈る無意識、きっとあれらがいとおしさというものだ。
 いちど胸のなかでつぶやいたことばはあまりにも自然にナデシコの心臓に滲みた。ずっと昔からそこにあったように、しっくりと馴染む。それはとても心地よくて、まぶしくて、きれいだった。だからこそ、記憶にうつりこむ過去が非難するようにささやいてくる。
(そんなあさましくもすがりつくような感情、みとめてもいいの?)
(ただ救ってもらっただけのくせして───)
(勝手に尽くすだけじゃだめなの?)
 傷痕の多い脚をふたたび曲げる。この気持ちに見返りがほしい、そう思っていないと断言できるだろうか? 彼のためになんて言うのなら、こんなあさましいこころなんて持っていていいんだろうか?
『言い訳にしては駄目』
 ふと、保健室で泡沫先生が口にした言葉が脳裏をよぎる。彼女の明るいオレンジの瞳を思い出す。彼女はこれを見越していたんだろうか。ナデシコがヒスイに向ける感情が「恩人」という一言で片づけられるほど単純なものでないと見透かしていて、あんなことを言ったんだろうか。
(私は───)
 すくってくれてありがとう、それをずっと伝えたくて、彼のちからに助けになりたくて、ここまでずっとついてきた。でも隣にいたいって願う理由、それはこの関係が始まったときとまったく同じなんてことはある?
 自らの膝に目を落とす。あかく色づいた膝小僧。こうして考えてみて、思い悩んでみて、でも結局答えなんてわかりきっている。だからそう、つまるところ、ナデシコに勇気がないだけだ。ほかの誰とも同じじゃない、自分のこころというものに向き合って、それに名前をつけて、だれかと分け合うのがこわいだけ。
「……すき、なんて……言ってもいいのかな」
 ついぽろっと考えていたことが唇の端から漏れて、あっと口に手をあてたときにはもう遅かった。ナデシコの両脇を固める恋愛脳ふたりの瞳が餌を前にしたねこのようにきらりと光って、彼女らの感情のたかぶりをあらわすようにざぶんと浴槽のお湯が波打つ。
「「いい!」」
 声をそろえて言い放つふたりに、ナデシコはあっけにとられた。ぽかんと口をあけて、ふたりを見上げる。ふたりは生き生きと目を輝かせ、握ったこぶしをかかげて力説した。
「そのまままっしぐらで進むのがベターでベスト!」
「自分の気持ちに自信持って! 乙女の好きって気持ちに間違いなんてないもの!」
「予感! つまりデスティニーこれから! 必要なのは勇気!」
「すべてのおんなのこはしあわせになる権利があるの!」
 自分を取り囲み矢継ぎ早にことばをつのらせるふたり。ナデシコはうっかり口をすべらせた先刻を後悔しつつも、彼女らの熱量につい口もとをほころばせる。自分のなかのなにかが溶けおちるような錯覚、それはけっして不快なものじゃない。
 たのしそうなふたりの声が浴室じゅうに響いて、その反響音だけが鼓膜を揺らす。しゃべっていることばの内容が聞き取りづらく、そこではじめてナデシコは自分が少しのぼせ気味になっていることに気づいた。視界の大半を埋める肌色がうるさい、ミルク色をした水面にそってたなびく湯気の模様に目が回りそう。のぼせそうになっているのは、ながいあいだ浸かっているせいだけではあるまい。頬も首筋も肘も火照って、体温に取り残されるのは指先だけだ。
「では具体案は如何なるパターン?」
「ううんヒスイ相手ならからめ手をつかうよりも直球にいくのがいいと思うの。どかんとぶつけて否応なしにわからせるのよ! ねえナデシコもそう思うわよね?」
「わ、私もうあがる……」
 ハイテンションで会話をつづけるふたりについていけず、なによりのぼせそうだったから、ナデシコは自分にむけられた問いが聞こえなかったふりをして立ち上がった。自分を引き留める声をてきとうにあしらって湯船からあがる。一度ぬるいシャワーで全身を流して、滲む視界の端をふりはらうように出口へと向かった。

「……質問攻めにするのはよくないですよ」
 ドアの向こうに消えたナデシコを見送って、いつのまにか浴槽のはなれたところで脚をのばしていた【九時】が呆れた響きでつぶやいた。残されたふたりは「えー」と物足りなさげに唇をとがらせた。