融けのこりの角砂糖
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【ビターオレンジ】は、ふいにそのちいさな耳をぴくりとさせた。黒目がちの大きな瞳を瞬かせ、首は動かすことなく目だけを周辺に配る。
 彼女はこの水に浮いた街において少しばかり奇抜な格好をしていた。紅赤のチャイナドレスにあしらわれた無数の白いフリルとそれからリボンのついたエプロン。丈の短いスカートからは白い足が伸び、踵の低い黒い靴を履いている。複雑に編んだ髪をふたつのお団子にまとめ、頭のてっぺんにはこれもまた白いヘッドドレス。つまりは俗に言うメイド服姿である。
「……どうかしましたか、【ビターオレンジ】」
 そんな彼女に、傍らを歩いていた女性が首をかしげてそう問うた。こちらも同じくいわゆるメイド服姿ではあるが、【ビターオレンジ】とは異なりクラシカルな(つまり王道な)タイプのメイド服を着ていた。
 くるぶしあたりまである長いスカート、胸もとを飾るシンプルなリボン。フリルのついたエプロンとヘッドドレスはこちらも共通で、顔面の半分を覆い隠す大きな仮面が陽の光を跳ね返して鈍く光っている。ただ、そんな無骨な装飾品に対して女性───【九時】の右眼の奥には、人間らしいあたたかさが見えかくれしていた。それを知るのは、【ビターオレンジ】だけだ。
「うん」
 【ビターオレンジ】はしばらく視線をそこらじゅうにさまよわせていたが、下唇を隠しにっこり笑うと、首を振って何事もなかったかのように前を向き、歩くのを再開する。
「杞憂杞憂な」
「杞憂?」
「視線らしき。でもおそらく気のせい、心配しないでいいね」
「そうですか」
 にこにこわらいながら言う【ビターオレンジ】のしゃべり方はどこかちぐはぐで些細な違和感がつきまとう。ただそれが彼女のもともとのしゃべり方らしく、【九時】はそれを追求することなくうなずいた。
 ふたりは先ほどこの島での用事を済ませたばかりだった。この島と、彼女らが属する組織───【ネクタル・フォークロア】の間に存在するとある契約の更新である。
 世間一般には主にテロリストとして名高き【ネクタル・フォークロア】であるが、その派手な動向のうらがわにはこうした地道で密かな条約であったり契約であったりが存在する。ただそのどれもが悪どく暴力的な条件のもと成立しているのだけど───それは、殴れば痛いというように至極当たり前でどうにもならない、永遠に変わることのない確固とした現実だった。
「今日もう、帰路につくか?」
「そうですね……。【高下駄】からは特に指示されていませんが、用事も済みましたし帰還してもいいでしょう。それとも【ビターオレンジ】、どこか寄りたいところでもありますか?」
「否、存在なし。帰還後のプリンがあれば」
「あなたはプリンが好きね」
「モチノロン」
 【ビターオレンジ】はにひっとこどもみたいな笑顔をうかべた。幼さの残る顔立ちに花開くようにうかんだ表情に、【九時】もつられるようにして笑った。そうしてふたりの足が、港へ向かう水路の脇、薄暗い小道に踏み込んだそのときである。
 ぽちゃん、とひときわおおきな水音がした。
「……?」
 【九時】が訝しげに眉をひそめ、脇を流れる水路を見やる。ちょうどすぐ前には両脇にそびえる建物と建物を結ぶように煉瓦造りの橋がかかっていて、その上から誰かが石でも投げ込んだのだろうか、と橋を見上げるも、そこにも誰の姿もない。
 重たげなスカートの裾を揺らして、【九時】は足を止める。その隣で【ビターオレンジ】もどんぐり眼を瞬かせ、なにか異変はないか確認するように耳を澄ませている。そしてふたりが一瞬だけ水路に背を向けた瞬間、ざばり、と波打つような音が響く。咄嗟に振り向き身構えたふたりの頭上、水面から飛び出てきたようにこちらへ一直線に向かってくるのは───鯨だった。
「な、」
 【九時】の喉から、呆気にとられたような気の抜けた声が漏れる。
 それは鯨だった。といってもほんものではない、『水でできた』鯨である。透明で端々が液体らしく空気にこぼれにじみ、それでも鯨としての細部をしっかりとたもちながらふたりへ襲いかかる。
 反射的にふたりは左右対称にとびのいた。水の鯨は目標を失ってなお進路を変えることなく真っ直ぐ落ちて、煉瓦の道に激突するとそこではじめて液体であったことを思い出したのか、水風船が破裂する時のごとく飛沫を舞わせながらそこらじゅうに散った。飛沫はランダムに散らばり、【ビターオレンジ】の頬をかすめる。それと同時に薄い灼熱が走ったのように錯覚して、自分の身に起こったことを理解した【ビターオレンジ】は鋭く叫んだ。
「触れたら切れる、回避!」
 飛沫がかすめたその頬は薄く裂け、若干の血が滲んでいる。
「これは……」
 【ビターオレンジ】の言葉に従い十分な距離をとった【九時】は、鋭利な刃物と化した飛沫を見送って眉をひそめた。仮面で隠れていないほうの瞳の奥で、なにか自分が体験した過去と符合するものがあった気がして記憶を辿る。
 一方ではじけた鯨であるが、完全に液体として煉瓦に染み込んだかと思えば、途端にまたすうっと地面から浮かび上がる。なだらかなフォルムに変わりはなく、終わりなど知らぬというようにまたふたりへ向かって突撃してきた。
「なんでもありですか、この魚類!」
 ただしその動きはけしてはやくない。見てから動きを起こしてもまったく問題のない速度に、ふたりは危なげなく鯨を避けてくるりとそちらに向き直る。鯨は先程とは異なり、かわされたあと地面に激突することなくゆるやかな動作で空にのぼり、ユーターンするとまたふたりをみた。
「……どう見ますか、【ビターオレンジ】」
「ん。推測するに能力固定された液体、壊すアテあり任せてオーケー」
「わかりました」
 【九時】はうなずいて、さっと後退する。荒事に関しては圧倒的に【ビターオレンジ】の方が得意であった。もちろん【九時】もそれなりの戦闘能力を有しているが、それでも【ビターオレンジ】が任せてと言ったのだ、【九時】の援護は必要ないと判断したのである。
 鯨と【ビターオレンジ】が向かい合う。片や透明な液体からなる巨大な鯨、片や華奢な矮躯にひらひらした服を着た【ビターオレンジ】。その迫力の差は歴然であったが、【ビターオレンジ】の目に恐怖はない。むしろどこかたのしそうに構えると、まるでピアノでも弾くかのように細い両腕を宙に伸ばした。
 彼女の腕が肩から指先までぴんと伸ばされてすぐ、その周囲にきらめきが舞う。明るいオレンジをしたきらめきがすらりとした腕をつつみこみ、やがてそれが晴れると、そこにはきらめきのかわりに無骨な手甲がはまっていた。彼女の手よりもひとまわりおおきな手甲である。大きくごつごつしたシルエットをもつそれは、いともたやすく対象を粉砕するであろうことがみてとれた。
「さて───」
 先に動いたのは鯨だった。その大きな口をひらき、まるで丸呑みにするかのように【ビターオレンジ】のもとへ飛来する。【ビターオレンジ】はそのくりくりした黒い目をほんの少しだけ細め、真一文字に引き結んだ唇を舐めた。ごつい手甲を嵌めた手をぎゅっと握りしめ、構えた姿勢で鯨を迎え撃つ。
 鯨と彼女が接触する瞬間、【ビターオレンジ】は勢いよく地面を蹴った。高くジャンプした【ビターオレンジ】は鯨を見下ろす。さっきと同じく目標を見失った鯨はそのままカーブを描いて空に戻ろうとするが、そうはさせない。【ビターオレンジ】は重力に従い落下しながら目を見開いた。真っ黒な瞳が際限まで見開かれ、そこには彼女にしか見えぬものがうつる。それ即ち───
「核視認」
 呟く声は空にのぼる。【ビターオレンジ】は手甲に覆われた手をつよく握り、落下のスピードのまま鯨に衝突する直前に、鯨の背のあたりを思いきりぶん殴った。
 液体であるはずの鯨であるが、しかし手応えは紛れもなく固形物を殴ったときのものだった。轟音が響き、鯨はあっけなく砕け散ってばしゃりと霧散する。そしてもう、蘇る気配はなかった。
 すたん、と着地した【ビターオレンジ】はにっと笑って【九時】にピースサインをする。【九時】はほっとしたように一瞬安堵の表情を浮かべ、それからすぐに唇を引き結んだ。
「すぐそばにいるのでしょう、不届き者!」
 ばっと片腕で空を切り、眉を立ててあたりを見回す。それにかえってくるのはしんとした静寂。【九時】は厳しい顔のまま強い眼差しを周囲に向け、【ビターオレンジ】はごつい手甲をがちゃがちゃいわせながらそのうしろに立っていた。
 数秒が経過し、【九時】の眉根に皺が寄った頃。
 かつん、と靴音が響いた。【九時】の肩が跳ね、【ビターオレンジ】が構えて身を低くする。そして薄暗い小道の奥からあらわれたのは、ふたりの人物であった。
「あっ」
「な───」
 その顔を見た【ビターオレンジ】は目を丸くして、【九時】は驚愕に目を見開いた。
「……久しぶり───とか、言っとくべきか」
「たぶんいらないと思う」
「うん。いらないな」
 ひとりめは青年。すっと細長い体躯はどこかしなやかな獣を連想させる。長い手足に、喉元に巻いた包帯。暗い深緑の短髪に、ツナギのような服を着崩している。夜の海のような色をした双眸の下には濃い隈が刻まれていて、彼のまとう薄暗い雰囲気を助長している。そのくせ顔立ちは中性的で、野性的にうつくしい。その右腕にさげるはひと振りの刀。鞘に納められたままのそれは、いまはただ無気力に彼の手によってぶらさげられている。
 ふたりめは少女。華奢な手足には節々に包帯が巻きついて、両手に皮の手袋をはめている。薄桃色の長髪に翠玉の双眸、青年と似た雰囲気のツナギのような上着に赤いスカートと、雨靴みたいなブーツ。目が大きく小柄なことから一見少女のように見えるが、よく見るとその顔立ちは大人びており、浮かべる表情もそれに見合った落ち着きがある。彼女は少女のような女性のような、それとも老女のような、あやふやなあやうさを秘めていた。
 【九時】と【ビターオレンジ】は、そのふたりを知っていた。けれど最後に会ったのはいつだろう、何年も前の話だ。
「【刀鍛冶】に【彼岸花】───!」
 【九時】がその名を口にする。それは【九時】、【ビターオレンジ】と同じコードネーム。つまりそれは、目の前にあらわれた新たな二人組が同じ組織───【ネクタル・フォークロア】に所属する幹部であることを示している。ただしこの場合に限っては、それは既に終わった過去の話だ。幹部、だったのだ。
「どうしてここに……。貴方達は、とっくの昔に離反しているはずで」
 【刀鍛冶】、それから【彼岸花】を睨む【九時】のことばがすべてを物語る。このふたりは離反者───つまりは裏切り者であった。
 【九時】と【ビターオレンジ】は彼らとほんの少ししか関わりがなかったが、けれどその存在はつよく印象に残っていた。なぜならば、このふたりは【ネクタル・フォークロア】において、はじめて無傷で離反を成し遂げた人物だったからだ。
「今更私達の前に姿を現すなんて……何が目的なんですか? ……いえ、目的が何にせよ、浅はかにも程があるのでは?」
「相見え戦闘・ひっ捕らえが定石ね」
 そう敵意をむき出しにするメイドふたりに対して、【刀鍛冶】はのんびりとも感じられるふうに首をひねった。
「……再会早々、穏やかじゃない」
「平和に交渉だなんて思っていたわけじゃないんでしょう、ヒスイのことだもの」
「まあね」
 【刀鍛冶】は目をすがめるようにしてメイド服のふたりを見やった。そして眠そうに目を瞬かせ、咳払いをひとつ。それにこたえるように、カチャリとちいさく刀が音を立てる。
「目的ね。それははっきりしている」
「……?」
「【九時】、それから【ビターオレンジ】。お前達ふたりには捕虜になってもらう」
 復讐のために。
 【九時】は息を呑み、【ビターオレンジ】は静かに手甲をはめた手を握り込む。単刀直入に言葉を吐いた【刀鍛冶】はふたりを気力があるんだかないんだかわからない目でまっすぐに見据えている。そんな彼のとなりに立つ【彼岸花】は、桜色の毛先を揺らしてただ黙っていた。こぼれ落ちそうなくらいの双眸をどこか遠くに向けて。