融けのこりの角砂糖
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「なあに、それ」
ふいにコーラルが投げかけた問いに、眠たげに瞼をあげて問い返す。コーラルはなにもない空をみあげ、指先をゆらゆらさせながら語った。
「大昔にはじめてあらわれた『ばけもの』なんですって。なんでもまっくろい泥みたいなからだで、苔みたいなめだまがひとつだけついてるとか……」
「ばけもの? ……はじめてきいた」
目を瞬かせてそう言うと、コーラルは意外そうな顔をする。
ナデシコはリビングにあたる部屋で、やけに装飾に凝った椅子に座っている。一方のコーラルは、ヒスイの作った車輪つきの桶にからだを沈めたまましゃべり続けていた。
「これ、結構有名な話なのよ。伝説みたいなお話なんだけれど、この『ばけもの』、二十年前くらいに再びあらわれたらしくて。プチブームみたいにまた語られるようになったんですって。お母さまが教えてくれたの」
「ふうん……。二十年前?」
膝のうえに広げた雑誌をめくりながら、ナデシコはコーラルの言葉を舌の上でくりかえす。二十年前のことを思い返そうとして、自分は細かい時間の経過を把握することが苦手であることを思い出し、やめた。
「それでね、緑の獣はにんげんのしんぞうをたべちゃうらしいの!」
「心臓?」
「そう心臓。怖いと思わない?」
「まあまあ怖いかな……」
あいまいにうなずいて、それからふと思いついたことを口にする。
「コーラルは人魚だから心配ないね」
すると、コーラルは「うーん」と難しそうな顔をした。首をかしげながら、水の中でくるりと回ってみせる。
「よく知らないのだけど、たぶんわたしの心臓はにんげんのとおんなじだと思うの。ほら、人魚の心臓はラピスラズリだとかいうでしょう? あれってうそよ、わたしたちにだってまっかっかな血が流れてるもの」
「じゃあたべられちゃうかも」
「ううん怖いわ」
コーラルは身震いする。それにあわせて、きれいな長髪が水面にひろがってゆく。ナデシコはその『緑の獣』とやらを想像してみたが、よくわからなかった。思い浮かべたなにかはぐずぐずととろけてオイルのようにちらばった。
ナデシコが先ほどから膝の上に広げている雑誌はこのまえ訪れた島にて購入した地元のもので、独特な文字の配置に目が回りそうになるしろものであった。ただそれが気に入って、ここ数日ずっとページをながめている。
よくわからないものは、なんとなくすきだった。だれがなんの意図でもってつくりあげたのだかわからないものは、昔から彼女にかわいた安心のようなものをあたえる。
(……むこうがわに、誰かの存在を感じることがないからだろうか)
ぼんやり自分の感覚を分析していると、コーラルのうしろの扉ががちゃりと音をたててひらく。ふたりはそろって色鮮やかな目をそちらに向けた。
「悪い、待たせて」
「ううん。いいよ」
現れたのはヒスイであった。今日も今日とて目の下の隈が酷い。その眼差しがゆらりと部屋の中を一周する。そんなヒスイを見て、なぜだかコーラルがくすりとわらった。花やぐような笑みである。
「いいわね、ふたりでお出かけだなんて」
「……コーラルも行く?」
ナデシコが尋ねると、コーラルは首を振った。やさしいまなざしのまま、言葉を紡ぐ。
「いいえ、わたしちょっと目立つでしょう? それに、ふたりを邪魔するほど野暮じゃないわ」
「……そういうところ、ティメオとそっくりだよ」
ヒスイはやれやれというように嘆息し、コーラルは笑ったままで、ナデシコはその間に座ったまま首をかしげて雑誌を閉じた。
海に浮かぶ街である。街中にはいたるところに水路が通り、小舟がゆるやかに流れていく。建物の隙間からこぼれる光が水路に降り注ぎ、幻想的な風景を生んでいた。
人のたくさん乗った小舟が建物の影に消えていくのを見送り、ナデシコはパンケーキのかけらをフォークで刺して口に放りこんだ。水面で反射されとんでくる光に目をちかちかさせながら、前に座るヒスイを見やる。ヒスイは表情を変えず黙々と鶏肉と野菜のソテーを食べている。かたい金属質な音が断続的に響いていた。
ふたりは降り立った島の一角にある店で昼食をとっていた。空は晴れ、ナデシコの足元ではちいさな鳥が数羽歩いている。
「……おいしい?」
「まあまあうまいよ」
「ヒスイはあんまりおいしそうにたべないよね」
「……そう見える?」
「ティーくんにいわせれば死人みたいなかお、だもの」
「……あいかわらず失礼なやつ」
くすくすわらうナデシコに、ヒスイは眉根に皺を寄せて水をあおった。ただでさえ隈の濃い三白眼とあいまって人相の悪さに拍車がかかるが、うららかな日差しのもと屋外のテーブル席のすみっこではそれも他人の目に触れることはない。
「ナコの料理は好きだよ」
「え」
「最初はあんなに下手だったのに」
「……うん。そうだね」
ふいにヒスイがこぼした台詞に、ナデシコは目を見開いた。過去を思い返しゆっくり微笑んだヒスイの眼差しを受け止めて、ややあってから、少しだけ照れたように笑う。それから誤魔化すように真っ白なテーブルのふちを指先で撫で、添えられた甘くないクリームをスプーンですくう。
「……ここ。いいところだね」
「……うん。俺もそう思うよ」
「まえきたときとは大違い」
「あのときは……」
ヒスイは頬杖をついた。なにを見るでもなくナデシコの指先のあたりに視線をやりながら、その目を細める。ちらりと眼球によぎる、さきほど思い返したものとはべつの過去を眺めているのかもしれなかった。
「ヒスイはかわいかったね」
「そんな前?」
「どれくらい前かはちょっとわからないけど、うん」
「ふうん……。ナコは、変わんないな」
「……それは、」
いまさらなのに、とナデシコの唇がうごく。けれどそれは音となることなく、空気をふるわせるのみにとどまった。
「でもあんな紙切れいちまいで、確かにこの街は変わった。あのクソ野郎の外道な行いのすえに、ここには平和があるってことだよ」
「……あれは、そういうにんげんでしょう」
翠玉の双眸が、うすぐらくひかっている。あなたも知っているはずだ、と語りかけるかのように。
ヒスイは口をへの字にしたまま黙っていた。彼の海の色の瞳もまた、それを肯定している。ふたりがともに持ち合わせているその過去が、足元を浸しているような錯覚。ゆるやかな倦怠が場を埋めつくす。
それを途切れさせたのは、ナデシコのほうだった。
「……あれ、」
ふいにナデシコの視線がもちあげられた。目を瞬いて、ヒスイの肩の向こう側を凝視する。少しおどろいたような顔だった。見開かれた瞳に映るものを追って、ヒスイが振り返る。
「ねえ、あれって」
ナデシコの細い人差し指がテラスの柵をこえ、レストランへつづくタイルの道の向こう側を指さす。水路に面したその道を行き交う人々のなかに、周囲の目を引く二人組の姿があった。
ふたりの人物である。そのどちらも、女性だった。ふたりそろって、並んで歩いている。彼女らが目を引く理由はそろって同じ。ふたりともかたちは異なるものの、女中服───俗に言う、メイド服を着ていたのである。
片方は、落ち着いた雰囲気のある女性である。青みがかった黒髪をうしろでひとつにまとめ、前髪もそろえて片側に流している。身にまとうのはシックでクラシカルなメイド服。一番上まできっちり留めた首元の貝殻みたいなボタン、シンプルな紐のリボン。黒い裾の長いドレスにまっしろいフリルのあしらわれたエプロンをつけて、同様にフリルで飾られたカチューシャをしている。
さらに特筆すべき特徴として、彼女はその顔面の右半分を覆い隠すようにごつい金属製の仮面をはめていた。その仮面の存在が、彼女の異質さを助長している。
もう片方は、前述した女性よりも背が低い。彼女のほうは、どちらかといえば少女と呼ぶのが正確かもしれなかった。
真っ黒いどんぐり眼にふたつのお団子にした黒い髪。こちらのスカートは女性のほうにくらべてかなり丈が短く、すらりとのびた脚が陽の光の下にさらされている。まとっているメイド服はなにやらチャイナドレスをもとにしているようで、肩口はフリルで飾られ腰にはエプロンが巻かれていた。もちろんこちらも示し合わせたかのように、白いヘッドドレスをつけている。
そんな具合に目立つふたり組を視認したヒスイは、すっと目を細めた。藍色の瞳が水面のようにゆらめく。
「ねえヒスイ、あの人たち……、会ったことある、よね」
「確か──あの堅物そうなのが【九時】、もう一方が【ビターオレンジ】だっけか」
ナデシコとヒスイは声をひそめ、目線はむこうのふたり組に油断なく向けたままささやきあう。
ナデシコはぼんやり思い出す。かつて自分が属していたあの闇色の場所をとびだすよりも少し前、新しく幹部となったふたり組がいたこと。そしてそのふたり組というのが、いま遠くを歩く彼女らであったことを。
彼女がそんなふうに遠い過去の記憶をひっくりかえして思い返していると、ふいにヒスイが立ち上がった。ガタガタとテーブルを揺らす彼に、ナデシコはきょとんとした顔をする。
「尾行しよう」
ヒスイはテーブル横に立てかけてあった刀を手に取った。それはいつもヒスイが持ち歩いているもので、ナデシコはそれを見るたびになぜかちょっとだけ不安になる。
ともあれ、ぽかんと口をあけたナデシコに、ヒスイは「ほら」と空いたほうの手をよこす。それが当然だろうという顔で。指の長い、しっかりとした手がナデシコの前に開かれる。
「え、あ、うん」
流れのままナデシコはその手を取って、立ち上がる。握られた指同士がぬるい温度を共有する。ひらりとスカートの裾がゆらめいて、そのまま駆け出したふたりのうしろ、テーブルには空の食器と無造作に置かれた紙幣のみが残された。