ここは透明な影の庭
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しばらく考えた末、ひろげていた本をぱたりと閉じて、椅子から立ち上がり教室を出る。
からりとドアを開けてすぐの出たところに、青年が倒れていた。赤毛の青年である。額にゴーグルをつけて、気の強そうな顔は殴られたのか、腫れて赤い筋が口の端から頬に流れていた。
「……赤紙くん」
ナデシコが彼の名を呼ぶと、痛みに目を瞑り呻いていた彼はゆっくりと目を開いた。そうして、驚いたように彼女の顔を見る。しかし、既にナデシコは彼を見ていない。ナデシコの翠玉の目は廊下の先を向いていた。
そこにいたのは、長身の青年だった。眠そうな顔、長い手足を持て余すように斜めに傾いだ立ち姿。暗い緑色をした短髪は狼の毛並みのように流れて、深い青の目の下にはくっきり濃い隈が刻まれている。首元には巻かれた包帯、ツナギのような服を着崩している。
彼の目とナデシコの目がばちり、とあう。どちらの表情も動かない。お互いによく似た無表情のままで、ナデシコとヒスイは見つめ合う。すでにヒスイはその手で殴り飛ばしたであろう赤紙に興味がなさそうだった。
「……はあ」
ふいにナデシコが胡乱気なため息をついた。その外見には似合わぬ、老成したため息だった。それは本人にしてみれば意識して漏らしたものではないようで、すぐにいけないいけないと指先で口をおさえる。その仕草は、対照的に幼い子どものそれだった。
ナデシコはその場にしゃがみこんだ。桜色の髪が見下ろした先の赤紙のほうへと垂れて、細い指がそれを絡めて耳にかける。眉根を寄せた赤紙に、ナデシコはなんてこともないようにゆっくりと声をかけた。
「赤紙くん。あんまりヒスイに喧嘩売るのもどうかと思う。そんなんじゃ歯がいくつあっても足りないから」
「……うるせえ」
赤紙は倒れたまま顔をしかめた。彼はナデシコと目を合わせようとしない。そんな彼のようすを不思議そうに見下ろして、けれどナデシコの中からその疑問はすぐにうしなわれる。彼女にとって、それはとても些末なことだった。
「今日は泡沫先生がちゃんと保健室にいるはずだから、安心していいよ」
「あんな口煩い奴は、ゴメンだっての……」
「……結局、最後まで変わらなかったね。私、あなたのことはきらいじゃなかった」
「……ハクリシカ、」
「元気でね、赤紙くん」
相手の話を聞くつもりがあるのかないのか、ナデシコは立ち上がり、めずらしくうっすらと笑った。ナデシコ本人としては、その笑みは毎回毎回懲りることなくヒスイに向かっていって全敗してきた彼への憐憫の表れでもあったし、出会ったときからずっと変わらない彼に対する憧憬の表れでもあった。
ナデシコの微笑を目にした赤紙の口は止まる。それはもしかしたらほかの理由を伴った現象だったのかもしれないが、ナデシコにそれを知るすべなどあるはずもない。彼女にとってみれば、赤紙はこのインダスト学院における日常風景のひとこまでしかなかった。
「さよなら」
その別れの言葉でもって、ナデシコのなかの彼に対する感情は無意識下において切り落とされる。切り落とされた感情は過去になり、記憶のなかに仕舞われる。最後に見た彼の顔が悔しそうなものだったことを、彼女は知らない。
すたすたと廊下を歩いてきたナデシコを見、ヒスイはあきれたような顔をした。「?」首をかしげるナデシコに、彼は短く告げる。そのうなじあたりにおりた毛先がゆらゆらしているのを、ナデシコはなんとなくみつめていた。
「おまえは冷血な奴だよ、昔から」
「……はじめていわれた」
「今まで言わなかっただけ」
「どうして?」
「面倒だから」
そう告げると、ヒスイは言いたいことは言ったと言わんばかりにその長い脚で歩き始める。釈然としない顔で首を傾げていたナデシコは、やや遅れてその背中を追った。
「お? 変な顔してんなナデシコ」
「してない」
「トマトだと思って口に入れたらアボカドの味がしたときの顔だな」
「……ティーくんは今日も絶好調だね」
「ん? 勿論」
ふたりがやってきたのは校舎の端の端にある教室だった。よくみるとやたらと私物が持ち込まれていることがわかる。部屋の端には折りたたまれた簡易ベッド、天井から下がるなぞのオブジェ、ちいさめの冷蔵庫など、役立つものからよくわからないものまで、教室にはそぐわないものがそろっていた。そんな好き勝手にものが持ち込まれた教室、その中央に鎮座する大きめの机のそばの椅子に、ひとりの人物が座っている。
体格から男性であることがわかるものの、顔立ちはうかがうことができない。なぜなら彼は顔を覆うようにすっぽりと栗鼠の被り物を被っているからだ。わかることといえば前述したとおりの体つきと、そして軽薄そうな雰囲気のみだった。ティーくん───ティメオは、被り物を被った頭を揺らす。どうやら笑ったらしい。
「よう、ヒスイ。また勝ったか」
「当然」
ヒスイはティメオの正面の椅子を引いて、そこに腰かけた。けろっとした顔でいるヒスイに、ティメオは快活な笑い声をあげる。がたがたと揺れ動く栗鼠の頭が不気味だとナデシコは思った。
「はは。赤紙のやつ、結局全敗じゃねえか。一度くらい勝ってくれればこっちもその気になったのにな」
「……あいつの正義感は、一生理解できないよ」
「あー……。まあ、おまえはそういう奴だし」
「赤紙くんの話?」
がたん、と椅子の足を鳴らし、ナデシコはふたりの傍らに座る。肩に下げたポシェットからハンカチで包んだものを取り出しながら、男ふたりに顔を向けた。
「ナデシコにはもっとわかんねえだろうな~」
「どうして?」
首をかしげる。するとティメオはおおげさに両手をひろげて、やれやれと肩をすくめた。芝居がかったしぐさだった。
「おまえにわかっちゃったら赤紙が可哀想だろ。なあヒスイ」
話を振られたヒスイはちょっと黙った。それからナデシコをちらりと見やって、口の端をほんの少し持ち上げた。それは機嫌の良さからくるものではなく、件の赤紙に対して同情を寄せる笑みだった。きょとんとするナデシコに、ヒスイは薄く笑ったまま、目を閉じて言う。
「あいつの名誉が傷つくことは確かかな」
「……よくわからない」
それでいいんだよ、とけらけらわらうティメオをほんの少しだけむっとした顔で見返して、ナデシコは逆側に座るヒスイへとハンカチを剥がしたタッパーを差し出した。
「食べる?」
「ん」
なかには果物が挟まったサンドイッチが綺麗に並んでいて、ヒスイは細い指をのばしてひときれひょいっとつまんだ。その横から、断りもなしにティメオが一気にふたきれかすめとっていく。いつも通りの光景に特に何を言うこともなく、ナデシコもサンドイッチを齧った。時季外れの苺は、やけに酸っぱかった。