ここは透明な影の庭
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「ここを出る?」
「うん、そう。そうだよ」
「……ふうん」

 薄暗い室内に、ふたりの人物がいた。どちらとも安っぽいキャスター付きの椅子に座っている。医師の診療室のようなその部屋で、患者側の椅子に腰掛けた少女は脚をぶらつかせていた。
 細い枝きれみたいな脚が何度も行ったり来たりをくりかえし、つま先にひっかけるようにして履いたミュールが窓からのひかりを反射してきらきら輝いている。桜色の髪は背中あたりまで伸び、動作にあわせてさらさら揺れていた。
 こどもっぽい動作とは裏腹に、その顔立ちはひどく大人びていた。翠玉の瞳に、珊瑚色の唇。磨きあげられた宝石のように完成された造形美を有した彼女。けれどその姿には、どこまでも未完成という印象がつきまとう。
「……なんで、だなんて聞く必要はないか」
 医師側の椅子に座り、机上の紙束をぺらぺらめくるのは若い女性だった。
 明るい赤茶色の髪をうなじの上でゆるくまとめ、紅を引いた唇に紫煙を立ちのぼらせる細い煙草を咥えている。長いスカートに黒いハイネックを着て、首にはなにかの身分証明書らしきものが下がっている。億劫そうに書類の文字を追う瞳は濃いオレンジ色で、目尻にきっちり引かれたアイラインからは意志の強そうな印象を受けた。
 隣に座る少女に反し、彼女は違和感のない『女性』だった。完成にちかい、おんなとしての姿。
 女性は書類に目を落としたまま、淡々と言葉を紡ぐ。
「もとからあんたたちはそうだものね。そのために、生きてきたのでしょう」
「私は……ヒスイのために、生きているんだよ」
「……ふん」
 女性は鼻を鳴らす。あきれたような目をしていた。脚を組み替えた際に、履いたハイヒールの踵が鳴る。
「結局、あんたの『それ』は治らなかったか───私の手じゃあ、治らないわ。やっぱり」
「………?」
「自覚がないのがいちばん救いようがないのよ、ほんとうに」
「……泡沫先生」
 泡沫、と呼ばれた女性はしばらくぶつぶつ呟いていた。しかし、やがて自分の名を呼んだ少女のほうをちらりと見やると、「………」黙って煙草を指で挟み、口から放して少女の顔面に紫煙を吹きかけた。途端に少女は眉をひそめ、床を蹴ってキャスターのタイヤをきりきり言わせながら泡沫と距離を置く。
「……煙草はよくない。よくないよ、先生」
「あなたの肺はニコチン程度で汚れるほどやわじゃないでしょう」
「………」
「いなくなるのね、ここから」
 泡沫はまた煙草を咥え、おおきく息を吸って、ゆるゆると吐き出す。少女はそんな彼女をじっと見つめていた。唇を閉ざし、すこし拗ねたような、そんな顔で。
「……あんたたちが乗っていたボート。あんな粗末なもので、よくここまでこれたものだってみんな言ってたわ」
「ヒスイのおかげだよ」
「……ナデシコ」
 ふと、泡沫が少女の名を呼んだ。ナデシコ───ナデシコ=ハクリシカは目を瞬かせ、女性の顔を見る。からから音を立てながらゆっくりもとの場所に椅子を戻して、聞き返す。
「なに?」
「これから先───なにがあっても、彼を言い訳にしては駄目」
「………? そんなの、当たり前でしょう」
「わかってないのよ、あんたは」
 泡沫は遠くを見ていた。窓の外からは幼い声の群れが響いている。あわない視線に不思議そうな顔をしながら、ナデシコはただ彼女の話を黙って聞いていた。
「その盲目さがあんた自身を狂わせる日がくるかもしれない。その献身さは、けして褒められるものじゃないのよ」
「………」
「あんたの人格を否定はしない。だから忠告してあげるの。いつか───どんなに時がたっても、彼が死んでも、彼を免罪符にすることだけは自分で禁じなさい。さもなければ」
 そこで泡沫は言葉を区切る。また煙草に口をつけ、離して、すうと息を吸った。くたっとしおれたように見えるフィルターにはあざやかな口紅の色がうつる。睫毛はきれいに揃って上を向き、ぱちり、という瞬きに追従するように揺れた。
「さもなければ、彼の隣にいる資格を失うことになる」
「……先生」
「───人生の先輩からの、アドバイスよ」
「………」
「年月の積み重ねではあんたのほうに分があるけれど……。人生経験だったら、いい勝負でしょうよ」
 そう言い切ると、散らかったテーブルの上に置かれた灰皿に煙草を押しつけた。火種が散って、積もった灰に埋もれる。そしてようやく、彼女はナデシコを見た。濃いオレンジの目がすっと細まる。
「返事は?」
「……うん」
「よろしい」
 頷くと、「そうそう」と泡沫は思い出したように唐突に机の上を漁り始めた。積み上がった書物を押しのけ、散らばったプリントをてきとうにそのへんに重ね、カルテらしきものをひっくり返してはなにかを探しているようだった。
「……なに探してるの?」
「んー? んーと……」
 泡沫はしばらく散らかった机の上をさらに散らかしながら探っていたが、やがて机の下にある引き出しを引いて、「あったあった」となにかを引っ張り出した。ナデシコは引っ張り出されたものに、目を奪われる。
「はい」
「……? これは?」
「餞別」
 差し出されたものを、ナデシコは受け取る。細い指に握りこまれたそれは、ブローチだった。円型の型に透き通る青い石が嵌め込まれている。目を凝らすと、その石のなかにはなにかの紋章が見て取れた。傘かなにかをさした女性のようなその模様は、けれどナデシコがそこまで視認した直後、また青色に埋もれてしまった。
「くれるの?」
「そのためにいま探したのよ」
「……ありがとう」
「困ったときにでもつかいなさい。まあ、今更役立つかどうかは保証できないけどね」
「これ、なんの役にたつの」
「さあ……。あの栗鼠頭にでもきくといいわ」
 泡沫はナデシコの頭にぽんと手を載せて、すぐに離した。ナデシコはそのたおやかな手が離れていくのを見送りながら、この部屋の消毒液のような香りを嗅ぐことも二度とないのだろう、と思った。