眼鏡のレンズで見えづらい夕日色のまなこがぶれることなくじっと下駄箱をみあげている。起伏のないまっすぐなからだをななめに傾がせて、どこか抜けたような立ち姿だった。右耳にはめこんだイヤホンのケーブルが風もないのにゆらゆらとゆれている。真っ青なサイドテイルは正反対にぴたりと停止していた。
「……ああ。やっときたね」
紀仁が簀子の前で立ち止まった気配を察したのだろうか、彼女はふとこちらに目をやり、ゆっくりと瞬いてからにやりと笑った。
「……迷継?」
「待ちくたびれたよ、瀧山くん、瀧山紀仁くん。君に話があったんだ」
「……?」
紀仁はことばをかわしたこともない転入生───迷継冷のことばに困惑しながら、背負ったリュックの肩紐に触れていた手を下ろした。
紀仁は文化祭準備の帰りだった。目の前にいる転入生が準備の手伝いに一度も来ないとクラスの女子が愚痴っていたことをぼんやりと思い出す。
「きみがあの脳の回路が焼き切れたみたいなおんなのこ、鞠桐白雪の幼なじみのひとりでいいんだね?」
「……何か用かよ」
「うん、間違っていないようで安心したよ。ああ、そう怖い顔をされては困るね。きみも安心してくれていいよ、彼女は僕にとってれっきとした友人だ。危害を加えたり、彼女に悪影響を及ぼしたりはしないさ」
迷継はよくしゃべった。教室の端で自分の机に座り、ただスマートフォンの画面を見つめイヤホンで外界との接点を遮断していた彼女とはまるで別人のようだった。ふと気づく。そろそろ五時になるとはいえ、周囲に人の気配がまったくない。紀仁と、それから紀仁のまえにいる彼女以外、誰もここにはいなかった。ほかのにんげんの声すら、ない。
「きみに───そうだね。アドバイスというか、助言というか───ある意味では忠告、もしくは最終通告ともいえるかな。まあ、それを伝えに来たんだ」
「忠告……?」
「うん。きみの幼なじみ、つまり鞠桐白雪だね。彼女、このままではきっと人を殺すよ」
「……は?」
ぽかん、とした顔をして、紀仁は迷継のその夕日色の目を凝視した。いま、なにか現実離れした、ひどく嘘くさい単語がきこえたような。
「……人を殺す?」
「そう。人殺しになるよ、彼女。……うん? なんだい、そんな鳩が豆鉄砲食らったみたいな顔をして。僕のいうことに信憑性がないみたいじゃないか」
「……いや、当たり前だろ……なにいってんだ、おまえ」
「おや、傷つくね。僕は親切心でもってきみに忠告してあげているのに」
それをふいにするのかい?
おどけたように目を細めて笑う彼女に、しかし紀仁は懐疑的な感想しか抱かない。それが表情にも出ていたのだろう、「ふうん」と迷継はいちどうなずいて、からだの重心をずらした。その動作はどこかピエロじみていて、それが紀仁の疑いが増す要因となっていた。
「君ならば───鞠桐白雪の異常性を十二分に知り合わせている君ならば、僕のいうことを信じてくれると思ったのだけどね」
「……どういう意味だよ」
「食いついたね。はは、そうでなくちゃ困る。そうでなくちゃ、僕が出張ってきた意味がないのだから」
「……巫山戯てんのか。からかうなら別の奴にしろ」
「巫山戯ていないさ、残念ながら。ただね、僕はなんでも知っている。鞠桐白雪がああなったわけも、きみが彼女から離れるチャンスを幾度となく得ながらもそれを拒んできた理由も、吾妻秋日の行動の背景も、そして彼女の何年経っても余りある残酷さ、そしてあの子の左手首のことさえね」
「……!」
言葉を失った。暑さに焼かれていた腕の表面はそのままに、そのしたの肉が一気に冷えて重たくなったかのように錯覚する。意味もなく口を開閉して、ぐっと奥歯を噛み締める。それは誰も知らないはずのこと。自分と秋日、それから鞠桐林檎、そして当の本人である白雪しか知らないはずのことだった。その誰もが口を滑らせるはずもない。白雪に至っては、その事実に重要性を見出してすらいない。
「……ッ、なんでその事を」
「言っただろう?僕はなんでも知っている、ってさ」
先程はただの戯言にしか聞こえなかったはずのことばが、いまははっきりとした信憑性をもって紀仁に降り注ぐ。陰ってきた空を背にし、愉快そうに笑っている彼女は両手を広げた。細い枝のような腕が空を切り、細い手首に握られた携帯端末のディスプレイが光る。
「さて、どうする?僕の言葉を信じるかい? このままだと白雪は人を殺す。そうだね、いまは一刻の猶予も、無い」
「……わかった」
考えた末、紀仁はそう結論を出した。笑顔のままこちらをみている迷継に、言う。目もとにちからがはいってゆくのを感じる。きっとまなざしは剣呑なものになっているだろう。
「おまえのことを信じたわけじゃない。ただ、おまえのことばは信じてやる。……あいつはいま、どこにいる? ……それもどうせ知ってんだろ」
「うれしいことを言ってくれるね。もちろんさ、彼女の居場所を僕は知っている。それを教える前に───いいのかい?」
「何がだよ」
「彼女がだれを殺すのか、きかなくて」
「……」
睨みつけるような紀仁の視線にもなお、迷継は笑みを崩さなかった。この後、すぐに紀仁は後悔することになる。彼女にその名をきいたことを。彼女の促すまま、その名をきいてしまったことを。
☆★☆
走っていた。膝の古傷がうずいているのを気のせいだと自身に言い聞かせながら、脇目も振らずに走っていた。まぶたの裏側に鮮明に思い出されるのは、先刻その名前を口にする迷継の姿。名を聞いて呆然とし鞄を床に落とした紀仁を目を細めて眺めながら、歪めた唇を動かして憲仁の背を押した彼女は追って来なかった。紀仁も振り向かなかったから、ほんとうのことはわからない。けれど、彼女はさいごまで笑みを絶やさなかった。心底なにかを楽しんでいるような、ひとりだけ舞台の観客席に座っているかのような雰囲気を崩さぬまま。
街の端、朽ちた廃病院の廊下で秋日は倒れていた。
血だまりにうつぶせで倒れていた彼の顔は青白く、生きているのかあやしかったが心臓は確かに脈動していた。しかし紀仁の呼びかけに答えることは無かった。かたく閉じられた瞼は開かず、彼の腕を握った自分の手のひらに血がべったりとついたのを見、紀仁は吐き気とめまいがした。目の前が真っ暗になり、息が荒くなる。自分の呼吸音と心臓の音がうるさくて、耳鳴りがした。夕日色に染まった廊下で倒れた秋日を前にして、現実味がないけれど確かに現実である目の前の状況から目をそらしたかった。しかし、秋日の真っ赤な血がそれをゆるさない。網膜を焼くほどの赤色が、否が応でも紀仁に現実を自覚させる。
「……っ、」
泣きたかった。自分が憧れる秋日がつめたい骸寸前となり横たわっているという事実にも、廊下の向こうにまでのびている血の雫の跡にも。軋む音が聞こえそうなくらい奥歯を噛み締めて、紀仁は泣きたくなるこころを押し込めて立ち上がった。さきほど119番した携帯電話は投げ捨てたせいで血の海に沈んでいる。そっと秋日を仰向けに横たえ、よろよろとちからのはいらない脚を叱咤し走り出す。
(……血はまだ、あたたかかった)
だから、秋日が刺されたのはつい先刻であろう。それなら、それならば。
屋上のドアを開けたそこで、紀仁は幼なじみの朱い瞳を見る。
「───やっほう、のーくん」
白雪はフェンスの向こうに立っていた。錆びついてところどころやぶれたフェンスの隙間からその矮躯がのぞき、夕日を背にした幼なじみはくるりとこちらを振り向く。蜂蜜色の髪はなぜか、肩あたりでざんばらに切り落とされていた。まるで出会った頃の彼女のように。
「なに……してんだよ、白雪……!?」
その両腕は血にまみれていた。ゆっくりその腕を持ち上げて、白雪はわらった。
「なにって……かんたんなことばじゃ言い表せないことだね、きっと」
その指先にはぎらついた包丁と、それから見覚えのある青いリボンがにぎられていた。血を吸って変色したそのリボンに、数年前の記憶がよみがえって消えた。
「は……? おい、巫山戯んな、白雪!」
「巫山戯てなんてないよ」
息が、止まる。こちらの目をじっと見つめている彼女の双眸に、吐き出すはずだったいくつものことばたちがほどけていく。おおきな瞳。飴玉のように輝く、けれど人工物じみたその眼球。紀仁はその目に気圧されていた。昔から、そうだった。
「のーくん。ねえ、あったんでしょう? したにいるあっくんと」
「……!」
紀仁が息を呑むと同時、白雪は握っていた包丁をぱっと手放した。鈍い光が散って、甲高い音をたてながら包丁はどこかに転がっていく。フェンスに白雪の細い指先が絡む。その右手首を飾る水色のリボンに、心臓が大きく鼓動した。白雪は笑顔だった。けれど、その目にあきらめが見え隠れすることに気づく。紀仁は動けなかった。白雪がなにをしでかすかわからなかった。そんなのずっと昔からそうで、でも今回はわけが違った。白雪のことが理解できなかった。なにひとつわからなかった。
「ねえのーくん。わたしってなんでいきてるんだろうねえ」
白雪は紀仁をみているようでみていなかった。紀仁はそれにきづく。眼球の焦点はたしかにこちらにあっているけれど、でも彼女はこちらをみてはいなかった。そのむこうのなにかを見透かしているかのようだった。その瞳の底は熱されたびいどろのように溶け、まるでなにかに焦がれているかのような光をもっていた。
「しらゆき、」
発した言葉さえ、彼女には届いていないようだった。汗が顎から伝い落ち、ひどい喉の渇きをおぼえる。蝉の声すらきこえない。耳鳴りがやかましい。
「だってほんとうはわたしはあそこで死んでたはずなのに」
「……っおい、血が、」
熱に浮かされたようにことばをくりかえす彼女に手を伸ばす。血まみれのブラウスの真紅がまるでひらききった花弁のようで、その左手首から絶え間なく落ちていく雫もまたそうだった。
「それにこの世界を死なすのもわたしなのに」
「……秋日さんになにしたんだよ、なんでこんなこと、…もうやめろ、」
静止の言葉を発する紀仁自身、どこかできづいていた。その言葉は枷にはならない。彼女を引き留めることは出来ない。これまでとおんなじに。
(───どうして、)
「だからわかっちゃったんだよ、わたしがなにをするべきか」
「何言って、」
ふいに白雪の目と紀仁の目がかち合った。火照った頬、こころの底からたのしそうな、けれどどこかさびしそうで達観したような、そんな表情。それを目にした途端、どきり、と心臓がひときわおおきく鳴動した。伸ばしかけた手がぴくりと震えて一瞬だけ止まり、その隙をとらえたかのように、白雪の金属質な声が投げられた。淡々とした声だった。
「わたしが死ねばいいじゃない?」
「……は、?」
思考が止まる。白雪がこちらに背を向け、凄惨な笑みを残して、地を蹴った。フェンスに絡んでいたはずの指先はとうの昔にほどかれて、掴むもののない手のひらは空のまま、
日が落ちる。橙色と闇色が入り混じった屋上で残された紀仁はひとり、聞こえてきた救急車のサイレンにも気付かぬまま呆然とその場に膝をついていた。きこえなかったはずの蝉の声が今更のように耳の中で響いた。