神様は君を手放さない

 
 
  
 少年は彼女にとらわれているという自覚があった。だから自分はそこから抜け出したのだといえるような確固たる理由が欲しかった。自分は彼女にとらわれてなどいない。関係はあるけれどそれだけなのだと、とくべつでもなんでもないのだと───そう証明したかった。それはこどもじみた意地であり、冷やかしを恐れる矮小なこころが生み出したちっぽけな強情さでしかなかった。聡明な彼はきづいていただろう、己のどうしようもなさに。けれどやめることはできなかった。周囲に対するポーズはすでに引き戻せないところまで進行し、そうそうやめることのできないものとなっていた。
 そんな悪循環に身を浸していた少年に、その自分の行いのせいで少女が破滅に輪をかけるなどとどうして予測できただろうか。

☆★☆

「俺のせいなんだろ」
 白雪は目を瞬いた。ゆっくりとしたその動きにはとくになにかの感情が覗けるわけでもなく、彼女はただよくわからない、といったことだけを感じているようだった。
「あっくんのせい? なにが?」
「……お前と春田があの日あそこで出くわしたこと」
 夕焼けの日が窓ガラスからさしこんで、秋日の位置からは白雪の輪郭がぼやけてみえている。その瞳だけが煌々と輝き、秋日をうつしている。どうしてだか、蝉の声すらきこえない。さきほどまではやかましいくらいきこえていたというのに。夏の存在から隔離されたような空間で、秋日と白雪は対峙している。
「あいつと会ったから───だからお前は飛び降りたんだろう」
「ハルタ」
 しばらく白雪はぶつぶつとそのなまえをくりかえし舌のうえにのせつぶやき、やがてぽん、と手を叩いた。おどけたように首を横に傾がせ、にっこりわらって言う。
「ああ、『ハルタサン』ね!」
「……」
「あぶないあぶない!」
 まるでその人物の存在をすっかり忘れていたかのような言動に、これまでの経験上予想していた秋日はそれでもなお眉根を寄せる。ああやはり彼女は異質なのだと、そう再確認する。はじめてあったあの日から、そんなことはよくしっていた。
「うーん……会ったから飛び降りた、っていうのはちょっとちがうかなあ……おしい! 座布団もつてかれちゃうぞ!」
「じゃあ、なんで飛び降りた」
「びびっと天から電波が届いたから───ってこれじゃあのーくんも納得してくれなかったんだっけ。おんなじ失敗してもなあ、あれだよね。うーん」
 白雪は唇のしたに人差し指をおしつけ、瞼を下ろし黙考するポーズをとった。それからぱちり、と瞼をもちあげて、
「わたしのほしい言葉をくれたからだよ」
 そう答えた。
「……ほしい言葉?」
「わたしのほしい言葉をくれたの、あのひと。だーれもわたしにくれなかった言葉をさ」
「……白雪」
「ねえ、あっくん。わたしね、あのときしんでいるはずだったんだ」
 笑顔だった。いつもどおり、見慣れたそれ。薄ら寒さをこちらにもたらすその表情に、秋日は言葉を失うことしかできない。ぴしり、といつもの日常に罅が入っていくかのような錯覚に襲われる。
「……それは、」
「うん。あのね、わたし握っていたの」
 おとうさんとおかあさん。ふたりの腕を握って、メリーゴーランドや観覧車の姿を夢想して、わくわくしながら歩いていたの。それなのに。それなのに───
「ひとってかんたんに肉になってしまうのよ」
 きづいたら、その場にはわたししかいなかった。すぐそばにころがっていたそれが両親だったものだと幼いながらに悟って、けれどまっさらなこころの表面にはなにもうかぶことはなく、ただそれに擦り寄る黒猫のまぼろしをみていたんだ。そしてわたしは理解する。わたしが、わたしだけが、この世から消えそこねたんだって。
「………」
「わたしはいきてるはずなかったの。だからそう、だからわたしはみんなと『ちがう』。だったらわたし、あるべきかたちに戻るべきだって」
 けれど。それでもだれも、わたしの背を押してくれない。それどころかひきとめる。ひとりだけ生き残ったわたしに対する同情や哀れみの眼差しは、けれどわたしの背を押すものにはなりえない。すぐそばにころがる死へ歩き出そうとするたび、だれかの腕がわたしの足首をつかむのだ。
「だからわたしはしねないの。だれかがわたしにきっかけをくれない限り、ずるずるいきてしまうんだ。わたしのせいでここはひずんでしまったっていうのにね、てっとりばやくしぬことすらできないんだもの」
 そうして、鞠桐白雪はいきていた。おわりへの憧れに揺れながら、それをだれかにゆるされる日を待っていた。そして、間接的にではあるけれど、彼女の背は押された。
 だからあのとき、白雪は飛び降りた。
「だからあっくんのせいじゃないよ。もちろんハルタサンのせいでもない。これはわたしのせいなんだ。ぜんぶぜんぶ、ね」
「……おまえは」
秋日は、……吾妻秋日は鞠桐白雪にしばられている───否、とらわれている自分のことをよく知っていた。そんな自分の姿はとても滑稽なものだろうと思っていた。それを他人に知られることがいやだった。まわりから逸脱した白雪の存在が自分とまわりとの関係性を崩すことをおそれていた。だから、自分は彼女にとらわれてなどいないということを証明したかった。そのために自分に好意を抱いているという女子生徒からの告白をそのまま受けてきたし、それなりにうまくやっていたはずだった。ただ、すぐに別れることが多かったのは、……やはりそこに自分のどうしようもない起源があったのだろうか。
 けれど、それでも。それでも、
「………そんなの認められるか」
 夕暮れの光で目がくらみそうになりながら、秋日はそう口にした。長い付き合いである幼なじみの顔をまっすぐみて、唇を噛んだ末にそう言った。
「おまえは───あの日から、ずっとそう思ってきたって言うのか? 紀仁が、林檎さんが、おまえの迷惑極まりない言動にどれだけ迷惑して……心配したのか。俺に想像できるんだ、おまえにできないわけないだろう」
「……」
「おまえにしんでほしいなんてこと、だれも望んでない。おまえのそれは、ただの自分可愛がりのエゴだ」
「……あっくん」
「それとも、おまえは……俺たちにそんなことを言わせたいのか?」
「………」
 皮肉のつもりだった。けれども白雪の表情をみた秋日の思考が凍りつく。白雪は目を見開いていた。びいどろじみた双眼がそれこそ無機物のように停止して、半開きの唇から声にならない音がゆるりと漏れ出た。
「ああ、そっか」
 そうだよね。
 まずい気がした。脳内でシグナルが点滅している。呆けた顔の白雪が、ふらりと片足を踏み出す。その動きがまるで死人のようで、秋日は思わず一歩だけ後ずさった。まっしろな顔の真っ赤な唇が魚のように開閉する。ガラスを通り屈折しながら屋内にさしこむオレンジで、白雪の影がのびていく。
「……白雪?」
「……ねえあっくん。そうだね、そうだよ。わたしね、わたしの背を押してくれるならふたりがよかったなあ。だってわたしふたりのことすきだもの。だいすきだもの」
「……おまえ」
「でももうだめなんだ。それじゃあ、だめなの。それじゃあこの物語は終わらないの。わたしは終われないんだよ。だってだめなの、あのひとがあらわれちゃったから───わたしの世界の均衡はもう、崩れちゃったから」
「……何の話を、」
「ごめんね、あっくん」
 熱が腹部ではじけた。
 よろりとよろけるようにこちらにもたれかかってきた白雪のからだをうけとめて、その腕のつめたさに目を見開いた刹那、秋日は腹部に灼熱を感じた。やけるような痛み。思考は消え失せ、ただ反射的に熱を発した箇所を見下ろす。
 鈍く光る包丁の刃が、秋日の腹に突き刺さっていた。白雪のちいさなてのひらに握りこまれたそれが秋日の内蔵を撫で、軋ませ、破る。ぎしりと骨の軋む幻聴を耳にした。現実味を欠いたその光景に、秋日の脳は空白のみを認識する。ただそこには疑問のみがぽつりとうかんでいた。めのまえの現実を理解したときにはもう、なにもかもがおそかったのだ。
「………、は、」
 ごきり、嫌な音がした。突き刺さったそれにちからがこめられて、捻られる。骨などものともせずに内蔵をかき混ぜ、念を押すように深く沈められた包丁の刃がずるりと抜けた。あかい花がばらばらと散って、白雪の白いブラウスを点々と汚す。
「し……らゆ、き」
「ゆるしてなんていわないよ」
 痛み、痛み。足からちからがぬけて、膝をつく。ゆらゆら水面みたいに揺れ動く視界で、白雪が倒れた秋日を見下ろしていた。だらりとさげた左手に握った包丁が鈍色に輝いて、あかい雫を落とす。
「安心して、あっくん。つぎはもっとうまくやるから。あっくんはわすれても、たぶんわたしはわすれられない。それがわたしへの罰だろうし、それから逃げるつもりはないから」
「……っ、なにを、するつもりだ、白雪……!」
「……そうだなあ。正しいわたしの世界を取り戻しに行こうかな」
「……!? おまえは、まだ……!」
「……それじゃあ、きっとしあわせな場所で」
 またね。
 白雪が踵を返す。とうとう座り込むことも出来ずに秋日はその場に倒れこんだ。じくじくと腹の傷口が疼き、じわりと血液が滲んではあふれていく感覚を覚える。さいごにみえた白雪は、まるで───まるで泣いているようだった。口もとをすこしだけゆるませて───笑っているのかと思ったけれど、泣いていたのかも、しれない。
 去る彼女を呼び止めることばが喉の奥までせり上がって、けれど発することは出来なかった。かわりに喉にはやけるような鉄の味が滲んで、吐き気がした。
(───ああ、)
 思えば、この病院で彼女に出逢ったあの日から、こうなることはきまっていたのかもしれない。あの日からもう、秋日の不幸ははじまっていたのかもしれない。秋日の脳裏に幼い頃の白雪の姿がよみがえる。肩で切りそろえられた髪がただゆれているさまを、秋日は横で見ていることしか出来なかったのだ。彼女がなにを望んでるのか知りながら、彼女の左手首の傷痕を知りながら。
 どうして自分は彼女の本質を知りながら、そこに踏み込むことをおそれたのだろう。言ってしまえばよかったのに。そんなことをしたところでなににもならないと。そんなものに焦がれることはやめて、ただ代わり映えのない日常のなかで、自分の隣にいてほしいと。そうだ。こんな結果になるくらいなら、こんなことになるくらいならば。

 正直になることをおそれた少年の意識は、そこでぷつりと途切れた。