やさしい殺意で生かされる

 
 
  
 蜂蜜色の滑らかな髪。朱色に光る飴玉のような双眸。すらりと伸びた両腕と両脚、よく動くあかい唇。やけに目につく緑のリストバンド、暗闇のなかで光るあやしいまなざし。こちらをひきとめる鈴みたいに高い声。部屋の隅に転がっていたうさぎのぬいぐるみの瞳、光沢のない赤の釦。ブッシュドノエルとティラミス。煌々と光る太陽の下のアスファルト。かかとを履き潰したサンダル。なんにも考えてなさそうに笑う顔。鞠桐林檎。数学は満点、歴史は赤点。紫の石の指輪と水色のリボン。あかいろ。指先にひっかけるようにして持っていたひかるそれ。絆創膏を剥がす音。水中をのぼっていくあぶく。汗を伝い落ちた首もと。くっきりと浮きでた鎖骨の影。水槽をのぞきこむ後頭部。アイスを舐めていた真っ赤な舌。信号機。名前のプレート、「鞠桐■■」。無機質な眼球、無邪気な笑い声。荒縄をさげたうさぎのスタンプ。目に痛いくらいの青空、かき氷のいちごのシロップ。

 以上。
 吾妻秋日が鞠桐白雪について思い浮かべる有象無象。

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 吾妻秋日は鞠桐白雪が無邪気であるがゆえに無慈悲であり残酷であることをよく知っていた。彼女のささやくことばのすべては甘ったるくて砂糖をぶちこんだかのように果てしなく糖度の高い嗜好品のようななにかであったが、同時にそれが麻薬めいたものでもあることに気づいていた。それに彼が気づいたのはもうずいぶんと昔のことである。けれどそれでももうその時点から、彼の足は彼女にとらわれていた。既にとらわれ終えていた。
 にんげんにとってよくわからないもの、というのはつきつめれば脅威である。自分の人生、運命をおびやかすかもしれないわからないなにか。鞠桐白雪はその脅威なり得る素質をじゅうぶんに、十二分にもっていた。それは幼なじみであるところの吾妻秋日の視点から見ても明らかだった。彼女はまわりとずれている。あきらかなずれ、ひずみをその小柄な矮躯のなかにとじこめて、へらへらわらっていた。その足もとを危惧したことは一度や二度ではない。いつか壊れるんじゃないか、いつか破綻するんじゃないか、そんな恐れは幼い吾妻秋日のこころのなかに長年巣食っていたが、ある日彼は気づくことになる。そんなことよりももっと深刻な彼女自身のあやうさに。

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 吾妻秋日が鞠桐白雪に出逢ったのは、小学四年生の夏であった。
 その夏は記録的な猛暑がつづいており、クーラーをつけずに自室にこもって買い溜めておいた大量の本を読み漁っていた秋日は当たり前のように熱中症でぶっ倒れた。わりとひどい脱水症状であった秋日はそのまま祖父によって病院にはこばれ、一週間味気ない病室で過ごすことになった。
「その本なに?」
 どうせ病室だろうと部屋だろうと大差はない。そう判断した秋日は懲りずに病院の休憩室でまた本を読んでいた。今も昔も彼の趣味は読書であるが、この頃がいちばん読書量が多かったと断言できる。難解なミステリーから安っぽい青春物までこだわりなく読みふける当時の彼はある意味活字中毒であり、新たな知識をただ貪欲にむさぼっていたのだ。秋日は当時から他者よりも脳みその出来がよく、同年代の同性と話が合わなかったというのも理由のひとつだだった。彼は周囲の同級生を蔑みこそはしなかったが、自分とは生きている世界が違う、いわばどこかべつの生命体だと認識しているふしがあった。それに反し、本の中には彼の追い求める知識がやまほどあった。そこにしか彼の望むものはなかったのだ。
「ねえ、なに読んでるの?」
「………あ?」
 けれど、そんな彼の認識はその日から覆る。これまで彼がみてきたどんなにんげんよりも、その日出会った彼女は段違いに『べつの生命体』のようだったのである。そう、鞠桐白雪という少女は、まるで全能であり万能であるがゆえに現実から乖離した本の中、物語の中にしか存在しないもののようで、あきらかに他者と存在そのものが異なっていた。
 紙面の文字をひたすら無心で追いかけていた秋日は最初、ちかくでした声の向けられる先が自分だということを認識していなかった。けれど再度きこえた声が先ほどよりもずっとちかくでしたものだから、ようやく秋日は顔をあげた。
 間近で朱い瞳が輝いていた。
「なっ、!?」
「え?」
 飴玉のような光沢をもつ眼球が秋日の顔のすぐ目前で瞬いている。予測していなかった状況に秋日は思わずのけぞり、座っていたソファから派手に転げ落ちた。まわりに積んでいた本が片っ端からばさばさと崩れ、尻餅をついた秋日の脳天を直撃する。つぶった瞼の裏側に数多の星屑がちかちかと点滅し、痛みにうめきながらようやく何事かと声の主を視認する。秋日をひっくり返した元凶はひとりの少女だった。
 ずきずきする頭をおさえているこちらを見下ろし、わあというかんじでぽかんとまるく口を開いている。年齢は秋日よりも下、小学校中学年といったところか。服装は秋日とおんなじ入院患者の着る薄い青色の病衣。肩あたりでばっさりとまっすぐ切りそろえた髪は茶髪とも金髪とも言い難い蜂蜜色で、窓から差し込む日の光をきらきらと反射している。全体的に細っこい矮躯、怪我をしているのか、頭と病衣の裾からのぞく手首と足首にそれぞれ包帯がぐるぐる巻かれていた。なによりも目を引くのは先ほど秋日を驚かせた要因であるその双眸で、ぎらぎらしたやたらと強い光で満たされた朱い目はなおも秋日の顔をうつしている。
「っあはは! すっごい音した! ぷぷ、ねえねえだいじょうぶ?」
「……………」
 目があってしばらく黙っていたかと思えばいきなり笑い出した彼女に良い印象を抱くはずもない。秋日は自分の目がじとりと半目になるのを自覚しながら、立ち上がり服をはたいた。返答することなく床に散らばった本を積み直し始めた秋日に、正体不明の少女は「ねえってばー」とやけに絡んでくる。
「おもしろいの読んでるの? あっわたしこれ読んだことある! りんご姉の本棚にあったもん。あれでしょ、たしか主人公の生き別れのおねえさんがラストで死をはこぶ蝶々の毒にやられちゃうっていう」
「ねたばれするな殺すぞ」
「を?」
 盛大なねたばれをやらかした少女にたまらず秋日は殺意をこめた一言を発した。けして平和なものではなかったそれに、けれど少女はにっこりわらった。心底うれしそうに。りんごのようなあかい頬がいろづく。
「あは! 殺すぞだって、おもしろい! ね、わたし鞠桐白雪ちゃんっていうんだよ。きみは?」
「……おまえにいう必要性がない」
「うーんそんなこといわないで!」
 きゃらきゃら笑いながらやたらとまとわりついてくる彼女───白雪に、秋日が音を上げて名乗るのはすぐだった。その日から、彼女は手足の包帯をひきつれて秋日のもとにやってくるようになる。馬鹿っぽいしゃべり方とは裏腹に彼女は意外と読書を好んでいるらしく、過去に読んだ本について話が弾むことも多々あった。それは秋日にとってはじめてといっていい体験だった。そして秋日が退院し、夏休みが明けたあと小学校の飼育小屋のまえにて、秋日は白雪と再会することとなる。
 それがはじまり。そして、吾妻秋日の人生の決定的な分かれ道でもあった。

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 夕焼けがまぶしい。身じろぐと足もとでじゃらじゃらと細かい破片たちが混ぜられ音を立てる。秋日は田舎の端にある見捨てられたともいうべき廃病院の病棟、その三階廊下にいた。
 ここよりもずっと駅に近い場所にあたらしく病院ができ、年季の入ったこの病院は閉鎖された。そのまますぐに取り壊されるはずだったが、なにぶん田舎であり厳しい財政に頭を抱えている延寿町のお偉いさんたちはそれを先送りにすると決断した。そしてずるずると何年も取り壊されないまま、今に至るのである。延寿町は近頃はとりわけおおきな事件もなく、住民も皆ふつうで人畜無害なためにこんなところに忍び込むような不埒な輩はほぼいないといっていい。事実、たまにここをおとずれる秋日がほかの人間をここでみたことはなかった。
 秋日がここをおとずれるたいそれた理由はない。強いて言うならばここの雰囲気が考えごとをするのに適しているから、だろうか。断じて、ここであの幼なじみと出逢ったから───などという理由では、ない。ないはずだと、思っている。そういうつもりでいる。
 秋日は読んでいた本をぱたりと閉じて、鞄にしまった。もたれかかっていた病室のドアから背を離し、床から舞う埃に眉を立てながら携帯の液晶を見下ろす。秋日は人を待っていた。今日この日この場所で、ここで会う約束を取りつけた相手を待っていた。彼なりに現状に蹴りをつけるために。過去を清算するために。
 秋日が細く息を吐いた時、廊下のむこうからじゃりじゃりと歩いてくる音がきこえた。秋日は身をそちらに向け、彼女を待った。胃の底がちりちりと焦げるような錯覚、それを知覚していないふりをして、いつもどおりの表情を意識してうかべる。嗚呼、いつから自分はこんなにも他者に振り回されるようになってしまったのか。いつから彼女はこちらの人生を狂わせ始めたのか。否、それはわかりきったことだ。だから、だから。だからこそ、こんな崖っぷちに立たざるを得ない状況に追い込まれている。
 足音が止まる。夕闇のなか姿を現した彼女と、秋日は対峙する。かわいた唇をこじ開け、彼女のなまえを呼んだ。
「───白雪」
 夕焼けよりももっと朱い目をした彼女が、そこにいた。