人肌で焦げた

 
 
  
 くらくらする。頭のてっぺんあたりに血液が溜まって、思考の邪魔をしている。汗とともに脳内をめぐる文字の羅列たちも流れ出してしまいそう。とろけたそれらは形をなすことなく、どろどろゼリーみたいに床に滴り落ちていく。
「だーうー」
 自宅リビング、ソファに寝転びわたしは暑さに耐えつつテレビをみていた。テレビには行列の出来るかき氷屋さんのかき氷を絶賛するアイドルの笑顔がうつっている。あつい。からだがとろけて水たまりになりそう。クーラーは午後一時からと鞠桐家ルールが定めているので、あと一時間ほどは年季の入った扇風機二台で我慢するしかないのである。太もものまんなかくらいまでの丈のうすいキャミソールワンピとデニムのホットパンツという風通しの良い服装にもかかわらず、すでに肌は汗でべたべただった。冷凍庫に貯蓄されていたアイスは既に底を尽き、ソファのまえのガラステーブルに置かれた麦茶のボトルはこの暑さで汗をかいている。べたべた顔にはりつく髪の毛を指先でちょいちょいとどけながら、わたしは決心した。
「シャワー浴びたらコンビニにいこう!」
 そうと決まれば話ははやい。腹筋と背筋をフルにつかってわたしはソファから飛び起きる。素足でフローリングの床に着地、包帯とさよならし大きな絆創膏とこんにちはした左手で麦茶のボトルをかっさらい、冷蔵庫に叩きこんでお風呂場に飛び込んだ。

☆★☆

 ひとに避けられているようなきがする。それはもともと元来そうなのだけど、さいきんは以前にもましてそんなきがする。退院しててろてろと文化祭準備の手伝いに向かったはいいけれど、わたしを迎えたのはなんともいえない生ぬるい忌避の視線だった。そして入院前とおなじダンボールにカッターの刃をすべらせるオシゴトに励もうとしたわたしへ、クラスメイトから何重にもオブラートにつつんだことばが送られた。『退院したての鞠桐さんに作業させるの、悪いよ』。わたしは馬鹿だけど馬鹿なりに聡いほうだと自負している。そのことばで、ああわたし扱いに困られているんだなあ、と自覚した。その日以降わたしは潔くすっぱりと手伝いにいくのをやめた。空気を澱ませてまで行く理由がないし、どうしてだか宮浜ちゃんがわたしにむけたあの日のまなざしがくっきりとおでこの裏あたりに浮かんだままでいるのだ。どうしてだろう。数年昔まで、そんな目を向けられるのは日常茶飯事だったのに。ひさびさだったからだろうか。もしかしてわたしは、期待していたのかな。
「あれっのーくんじゃん」
 家をでて、駅前まで足を運びコンビニを発見したところでのーくんをみつけた。学校帰りなのだろうか、制服姿にぺらぺらのリュックを背負ったのーくんはわたしの声にふりむいて、わたしの顔を見たとたんまるで幽霊でもみたみたいな顔をした。奇しくもその顔はこのあいだの清水ちゃんのものとそっくりで、わたしはちょっとふくざつなきもちになる。みんなわたしがすこしだけ入院していたくらいでしんだひとみたいにあつかうのだから、このわたしだってさすがに面食らっちゃうぞ。
「やっほうのーくん。学校帰り? 奇遇だね!」
「……白雪、おまえ、携帯どうしたんだよ。連絡したんだぞ、俺」
「え? ああ、うん。携帯はね、紐なしバンジーしたときに大破しちゃって。あたらしいの買ってもらった! じゃん!」
「……」
 どうやら入院中連絡が来なかったのはやっぱり携帯がスクラップになっていたせいだったらしい。それなら拗ねる必要はなかったなあとわたしはふわふわそんなことを考えながら、ぴかぴかおニューの携帯をのーくんに見せびらかした。
「なあ、白雪、」
「あっそーうだ。ねえのーくん、お昼もうたべた?」
「……まだ」
「じゃあ一緒にごはんいこうよ! わたし牛丼たべたいなあ」
「……わかったよ」
「やりい!」
 わたしはぴょんと飛び跳ねて、そこで足もとがずいぶんとまえに林檎姉がおみやげに買ってきた下駄だったのを思い出してすっ転びそうになって、けれどそこは持ち前のすぺしゃるな運動神経で持ち直し着地した。カンッ、と存外おおきく鳴った甲高い音に、のーくんはびくりと肩を揺らした。まるで猫みたいだな、と思った。

☆★☆

「牛丼たべたいんじゃなかったのかよ」
「やっぱり鶏肉の気分になったのさ!」
 駅前の丼物のチェーン店に意気揚々と乗りこみ、わたしは親子丼、のーくんはおろしポン酢牛丼をそれぞれ注文した。入って早々お冷を一気に飲み干したわたしのまえにはふたつめのお冷が置かれている。じりじり窓のガラスから差し込んでくる日光がコップの中身に直接あたって、とけた氷がからからと音を立てた。
 わたしは手元のスマートフォンをすいすい弄って、トークアプリをダウンロードし直す。ラッキーなことに電話番号を変えずに済んだので、問題なく前につかっていたアカウントでログインし直すことができた。ためしにのーくんにスタンプをぽんぽん送ってみるとのーくんのスマホがぴろぴろと鳴って、液晶を見たのーくんが胡乱気な視線をよこした。えへへ。
「そういやのーくんのクラスはなにをするんだっけ?」
「……延々とチョコパフェを売る」
「へえ! それはそれは! 行ってあげるよ!」
「そういやおまえあの転校生と仲良くなれたのか? なんかともだちになるってはりきってただろ」
「ああ迷継ちゃん? もちろん! お見舞いにもきてくれたよ! わたしらもうおともだちです!」
 言うと、のーくんはぴくりと指先を揺らしてわたしの顔を凝視した。
「?」
「……白雪」
 のーくんの黄金糖みたいな目のなかにわたしが浮かんで揺れている。映りこんだわたしは、苦いものでもたべたみたいなのーくんの顔をふしぎそうに見返している。
「なんであんなことした」
「………」
 はりついた唇が、吐き出される寸前だったことばたちの邪魔をする。そのせいで一瞬だけかたまったわたしをよそに、「お待たせしました~」やってきた定員さんが向かい合うわたしたちのまえにどんぶりをそれぞれ置いていく。
「ごゆっくりどうぞ」
 玉子で閉じられた鶏肉がほかほかと湯気をあげている。それをいちど見下ろして、それからわたしはもういっかいのーくんの顔に焦点を合わせ直した。へらり、笑みとともに。
「あんなことってなに?」
「……飛び降りたことにきまってんだろ。わかってるくせに、誤魔化すな」
「誤魔化してるつもりはないよ」
「……なんで飛び降りなんてしたんだよ、おまえ」
「……うーん」
 わたしはのーくんの瞳から目をそらして、テーブルの端にある箸入れから割り箸を取り出した。パキン、ときれいに割って、それからのーくんのことばに返答する。
「天からの啓示といいますか……天啓? 的な? びびっと白雪ちゃんの脳裏に電流が走りまして」
「巫山戯んな」
「巫山戯てないもん」
 いただきます、と手を合わせ、ぱくりと鶏肉を口に放り込む。もぐもぐと噛みしめて、そののちにお米も口に運ぶ。そんなわたしを見、ため息をつきながらのーくんもまた割り箸を手に取った。
「おまえ、そういうのやめにするはずじゃなかったのかよ」
「……? それっていつの話?」
「中学」
「ああ……うん、あのときは叔父さんにすごく怒られちゃったからね」
なつかしさに目を細める。あのころはわたしもまだまだ未熟だったし、こどもだった。
「でもね、ひさびさだったから。つい考えるより先に実践してしまったのです」
「……」
「大丈夫だって。のーくんは心配性だなあ」
 瞼によみがえる記憶たち。ああ、わたしにああいうことを言ってくれるひとがまだいたんだ。それはわたしにとってある意味ではよろこばしいことではあるけれど、同時にのーくんやあっくんにとってそれは眉をひそめざるを得ないことなのだ。わたしは彼らがわたしのそれにそういう顔をするのがあんまりすきじゃなかった。だから、なるべくこの世に沿っていきていこうときめた。筈なのだけれど。
 どうしてだろう、脳裏に迷継ちゃんの姿が思い浮かんで、すぐにかき消えた。
「それにわたしはなかなかしなないもん。身体だって丈夫だし、昔から傷とか病気とかすぐ治っちゃうすぺしゃるなスキルをもっているので」
「おまえがよくても俺らはよくない」
 低い声だった。のーくんのもともと三白眼にちかい目もとがさらにほそめられて、瞳がゆらゆら揺れている。その目がわたしの腕の絆創膏をなぞった。
「おまえはいいかもしれないけど、俺らにしたらたまったものじゃない。林檎さんだってそうだ、おまえが傷つくのを受け入れるわけないだろ」
「のーくん」
「自分から死ににいくようなおまえの行動は間違ってる」
「……」
 のーくんは怒っているのだ、という事実をわたしは認識する。彼はわたしを真正面から見据え、眉間に皺を寄せ唇を噛んでいる。そんな顔をするのーくんは久々にみた。そんな顔をさせたのはわたし。わたしのせい。
(そんな顔させたくなかったのになあ)
「うん。ごめんねのーくん」
 だからわたしは、そう言ってわらった。のーくんはそんなわたしを見てなぜだろう、息を飲んで目をそらし、口をつぐんだ。居心地の悪い沈黙がおとずれて、 耳鳴りめいた音のみがわたしの耳を支配する。
 ごめんね、なんて。なんて安っぽいことば。わたしが彼らに伝えたかったことばは、はたしてそんなものだっただろうか。冷えた目でわたしを見つめ、薄くわらってみせた青い彼女ならば、あるいはその答えを知っているだろうか。
わたしたちのあいだに停滞した沈黙を破ったのは、電子的な携帯の着信音。
「あ」
 ちかちか光る液晶、そこにうつったなまえは、わたしの世界を構築する最も重要なもうひとりのものだった。