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その机はまるで雑踏のなかにあいた空白のごとく、ぽつんと存在していた。
今年の春、二年の教室を訪れた際の出来事だ。
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「おはよう清水ちゃん」
幽霊にでも出くわしたかのような顔をしてしまった、ような気がする。俺の目の前でにこにことわらっているのは件の鞠桐白雪だった。いま現在、この延寿高校でもっぱらの噂になっている彼女。俺の友人である、彼女。目の前にすると俺はいまでも彼女の笑顔に一瞬だけすべての動作をとめてしまう。動きを忘れてしまう。みとれている、のだと思っていた。これまでは。
「お、はようございます」
「おはよー」
校門の前で後ろから走ってきた彼女は俺の横に並び、幸福そうにわらった。いつもどおりの笑顔。けれどよくみれば、その頬には痛々しさをこちらに刻みつけるおおきなガーゼがはられている。ついでとばかりにむきだしの左腕には包帯。俺の脳がことばを探してぐるぐると迷走する。気遣いの言葉をかけるべきか、深入りしないべきか、迷う。開きっぱなしの口はきっと間抜けだ。
「清水ちゃんはきょうもかわいいね!」
「え、あ、あの……」
挙動不審な俺を気にかけることもなく、彼女は普段どおりの定型文を俺に投げかける。男にかけるべきではないその単語をふだんならば否定するけれど、今日はそんな余裕はなかった。その言動はおそろしいほど『いつもどおり』だったからだ。その事実に背筋がすっと冷える。はじめて、ではない。この同級生をおそろしく思うのは。彼女はわかっているのだろうか。彼女がお盆のあいだ入院していたことは、もう学校中の生徒みんながしっている事実であることを。そして、その理由を憶測し尾鰭をつけている輩がいることを。
ざわざわとした喧噪を遠くに感じる。校舎は目の前、夏休みだから急ぐことはない。教室にいるのは文化祭の作業に追われているクラスメイトだけで、美術の才など持ち合わせていない俺が多少遅れたとしてもだれも気にとめないだろう。けれど、けれど───俺の気は急いていた。俺たちの横をすり抜けていくほかの生徒たちは、俺のめのまえでにこにこしている彼女にちらちらと視線をやっている。もちろん、そんな注目の的である彼女と会話している俺にも、である。めだつことは、臆病で小心者の俺にとってなにより忌むべきものだった。けれど、同様に臆病で小心者であるからこそ、この現状を打破できないという最悪の状況に陥っているのだ。
「……あの、鞠桐、」
「うん? なあに、清水ちゃん」
「……」
意を決して名前を呼ぶも、まん丸の目に見返されて言葉に詰まる。俺はうろうろと視線を泳がせたのち、ひどく遠回りな言葉をかけた。
「あの、その……大丈夫、なんですか」
「? ああ、これ? へいきへいき、おおげさに巻いてあるだけだもん」
包帯をぐるぐる巻きにした左腕を上げ、彼女はへらへら笑ってそう答えた。ちがう、と言いたくて言えなかった。そんなことを聞いたわけじゃない。俺が聞きたかったのは、その怪我をした過程にあったであろうなにかのことだった。けれど、彼女はふつうに、ひどくふつうに、怪我の安否について答えた。先ほどの俺の問いかけに含まれた意味合いを理解せずに。
きづいてしまった。否、前々からきづいていただろう。きづかないふりをしていただけだ。彼女が、常軌を逸していることなど。
だから俺は言葉を失ってしまった。青ざめた顔にきづいたのだろうか、彼女は不思議そうな顔をして俺の名前を呼ぶ。答えられなかった。めのまえにいる存在が、急にしらない別次元の存在のように感じてしまったから。
そんな俺への助け舟は意外なかたちであらわれた。
「清水」
聞き慣れた声、同時にうしろから腕を掴まれる。何事かと振り向けば、そこにはこちらもまた見慣れた宮浜の顔があった。いつもなら人の良い笑顔を浮かべているその顔は、なぜだかいまは厳しい表情を浮かべていた。
「宮浜……?」
「あれ、宮浜ちゃん。おはよう」
「……鞠桐」
鞠桐に声をかけられてもなお、その顰め面は変わらない。いつもの朗らかな人となりはどこへやら、宮浜は厳しい顔をして黙りこんでいる。
「……どうかしたんですか、宮浜」
「……いや」
握られた腕が痛くて俺も声をかけてみるが、宮浜はじっと鞠桐をみつめたまま動かない。その瞳にはまるでなにかを確かめるような、くわえて彼女を値踏みするような、どちらにせよ彼の性格に似合わぬ光が見え隠れしていた。そんな彼に戸惑うのは俺だけでなく鞠桐も同じで、「宮浜ちゃん? おなかでもいたいの?」と的はずれな問いを彼に投げかける。その問いに宮浜が答えることはなく、ふいに鞠桐から視線を外した宮浜はようやっと口を開いた。
「……ごめんな鞠桐」
「え?」
「……ちょっとテニス部の件で用があってさ。先教室行っててほしい」
きょとんとした鞠桐に、宮浜はそう告げる。真面目な顔だった。かたり、と首をかしげた鞠桐は、そのまま少し顎をひいてうなずいた。
「うん。わかった、おつかれさま」
それからちいさくにこり、とわらった。その笑顔もまた紛いもなく『いつもどおり』のそれで、俺は一歩だけ後ろに足を引いた。そんな俺を意に介することもなく、鞠桐は校舎へ歩いていった。赤いスニーカーでもって進んでいくその背を見送り、俺は宮浜の顔を見上げる。
「宮浜」
「……ごめん清水、用事っていうのは嘘だ」
「え?」
言って、宮浜はぱっと俺の腕を離した。呆気に取られ、俺はただ彼の顔を凝視する。困ったような顔をして、頭を掻く彼の顔にはやはり暗い色がよぎっている。いつも明るく裏表のない彼が嘘をつくなど、天変地異の前触れだろうか。
「ただ……あいつが」
「……鞠桐が?」
「……ほとぼりが冷めるまで、鞠桐とは距離を置いたほうがいいかもしれない」
ことばを選ぶようにして吐き出された言葉に、今度こそ俺は仰天した。いつも鞠桐と馬鹿騒ぎを起こしていた彼が、そんなせりふを吐くなどと。けれど宮浜の顔は至極真面目で、同時にひどく迷っているようだった。寄せられた眉根には皺が寄り、かたく引き結ばれた唇が重く閉じている。
「それは……どうして、」
「……知ってるだろ、噂」
「!」
噂。そのひと単語で、おそらくこの学校の生徒ならばそれがなにを示しているのかすぐさま理解するはずだ。それは今現在、この学校で流れているひとつの噂のことを示している。
曰く、
『鞠桐白雪が春田貴和子を狂わせた』。
それは二週間ほど前のこと。八月の上旬お盆の前、文化祭準備のため騒がしかった延寿高校の屋上から女子生徒が飛び降りた。その女子生徒が鞠桐白雪であることは、瞬く間に生徒中に知れ渡る。俺はその頃すぐ近くの他の高校で練習試合をしたのち帰路についていたので、それを知ったのはその日の夜であるが───それはともかく。彼女が飛び降りた理由はわからない。遺書もなく前兆もなく、彼女は唐突に飛び降りたのだ。死ぬ願望があったわけでもない。そんな性格でないのは俺もよく知っていた。ならどうして彼女は飛び降りたのか。噂を流した悪趣味な輩は、それに同日起きた騒動を結びつけた。
同日、鞠桐が飛び降りたとされる時刻よりも後のことである。延寿高校からすこし離れた古い踏切で、またべつの女子生徒が遮断機の降りた線路内に立ち入るという事件が起きた。なんでも電車が通る数秒前の出来事で、通りがかった延寿高校の生徒に慌てて止められ事故には至らなかったものの、立ち入った女子生徒は半狂乱で線路に飛び込もうと躍起になっていたらしい。噂によれば、彼女が春田貴和子。延寿高校の二年生で、品行方正文句のつけようがない優等生であるという。鞠桐とはまた違った理由で自殺しようとする動機がないようにみえる彼女がそれでも自殺しようとしていた理由、それがそれよりもまえに飛び降りた鞠桐にあるのではないか───噂を広めたどこぞの誰かは、そう推測したのだろう。少なくとも俺のところに回ってきたその噂は、そういう内容のものだった。
ふつうならば逆だろう。鞠桐が飛び降りた原因が件の春田先輩にある、と考えるのが妥当であるはずだ。鞠桐を飛び降りさせた、極端な言い方をすれば突き落としたのかもしれない春田先輩が、その後過ちに気づき自らも死のうと踏切に入った───そう考えれば(サスペンスの見すぎだという突っ込みが入るかもしれないが)一応の辻褄はあう。けれど、そこにふたりの人間性は加味されていない。いま学校内でまことしやかに囁かれているこの噂の根源には、おそらく鞠桐白雪の『ずれ』がおおきくかかわっている。俺はこの噂を耳にしたとき、はっきりとそう思った。片や欠けたところのない優等生。そしてもう片方は、延寿高校随一の変わり者として名を馳せる問題児。彼女はたぶん自覚していない。彼女と同じ中学にいた生徒は口々にいう。彼女はおかしい、ふつうじゃない、『ずれている』、と。そんな眉唾ものの評価を、それでもなんとなく、彼女と言葉を交わした人間ならば全員が理解していた。
だからだろう。彼女が他人を狂わせることができるにんげんだと、そんなことすらも納得できるほど、彼女の『ずれ』は決定的なものなのだ。だから、そんな噂がたっているのだろうと───真偽に関係なく、俺はそう思っていた。
「……噂って、あの」
「あれはたぶん、あってる」
「な、」
「……春田先輩が言っていたなかに、鞠桐のなまえがあった。だからきっと、原因は鞠桐にある。それは間違いない。それがどんなかたちであったとしても、それだけは断言できる」
「……どうして宮浜がそんなことを知っているんですか」
「……春田先輩を止めたのが俺だから」
遠くをみつめた宮浜は、そうぽつりと漏らした。俺はただ宮浜の苦々しい横顔をみていることしかできない。彼が語っていることを中断させる権利は俺にはなかった。
「俺は……そんなにできたにんげんじゃない。だから、俺はきっと鞠桐より清水を優先させたんだ」
「……」
「友達に差異をつけるなんて、いい奴のやることじゃない」
宮浜が握っていた腕がじくじくと鈍い痛みをうったえている。俺はなにもいえなかった。なにかをいおうともおもえなかった。宮浜がいいひとでないのなら、俺だってそうだからだ。友人をおそれるじぶんだって、よっぽどいいにんげんではないだろう。けれど、そんな俺を目の前にしても、なにも気づかずいつもとおんなじに笑っていた鞠桐の頬のガーゼが鮮明に思い返されて、そして消えた。