「……あ」
このまえみた夢とおんなじだ。
となると、これも夢だろうか。首をひねっていると、突如わたしの目を光が焼いた。「、えっ」突然の光に視界がちかちかと明滅する。何度も目を瞬いてから、ようやく眼球はもとの役割を取り戻したようで、そのふたつの目には誰かの後ろ姿がうつっていた。
「……だれ?」
見覚えは、ない。うつむいて、黒い床にぺたりと座り込んでいる。先ほどの光はあのひとのからだから発せられたものだったのだろう、わたしとおんなじにそのひとも発光している。細い背中だった。神話かなにかに出てきそうな白い布をまとっていて、骨の浮いた白い背中が剥き出しになっている。重力にしたがって垂れた銀色の髪は長くて、きっとさぞかし指通りがいいんだろう。
そしてその背中には、わたしとおんなじような翼が一対。
好奇心をくすぐられ、わたしはその人影にちかづく。裸足だったようで、ぺたぺたと気の抜ける音が耳朶にとどく。わたしはひょいっとその顔をのぞき込んだ。そこでなにしてるの、とか、ここどこ、とか、そんなことをたずねるつもりだったのだ。けれどわたしはそこで目を見開いた。そのひとの目、黄金の眼に射止められて、思考が止まる。きれいな目だった。宝石を閉じ込めたような、この世のものとは思えないような、そんな双眸。
(あれ、)
(これ、どこかで)
「───嗚呼、」
そのひとがなにかを言った。息遣いだけがきこえた。そのひとの翼が一度羽ばたいて、わたしはその目に射抜かれたまま、崩れた足元をよそに暗闇に呑み込まれた。
☆★☆
「はっ」
目が覚めて最初に映るのは天井。白い天井。それから気づく、薬の匂い。ここが病院だときづくのに、時間はかからなかった。かけられていた毛布をどかそうと左手を動かした途端に、「いっっ」走った激痛に叫ぶ。白いベッドのうえで痛みに悶えていると、
「お早う」
落ち着き払った声。傍らのパイプ椅子に座っていたのは林檎姉だった。長い黒髪に黒縁の眼鏡。手もとで器用にリンゴを剥きながら、ちらりとこちらを一瞥してまた視線を落とす。
「気分は?」
「え、あ、うん。げんき」
「冗談はほどほどにしておいて」
林檎姉の服装はいつも通り、どこか世間からずれていた。今日はどこかの令嬢みたいな真白いワンピースにつばの広い帽子。室内だというのに帽子はかぶったまま。適度に冷房の効いた部屋のなか、その姿はすこしというかかなり浮いていた。
「屋上から落ちたって」
「あ」
「自分で落ちたの」
「てへへ」
痛む左腕をみると、大袈裟に思えるくらいの包帯がぐるぐる巻かれている。その他外傷を確認するも、頬と右肘と太ももに貼られたガーゼが目につくのみで、屋上ダイブしたのがうそのようだった。ただ、頭に巻かれた包帯と、先程からずきずき痛む左腕、それから足を固定するギプスのみがわたしに落っこちたんだという確証をくれた。
わたしは生きていた。
「飛び降りて雨避けの屋根に落ちて屋根へし折りながら落ちて破片で肌切ってとくに左腕深く切ってそれで植え込みに落ちて頭打った…って、きいたけれど」
「まじか」
思っていたより強運な自分に驚きである。代償に支払われたのはわたしの血液。ふうん、とガーゼを撫ぜる。
「……」
「……」
林檎姉はそれきり黙ってするするとリンゴを剥き、わたしが見つめるなかきれいに皮を膝のうえにひろげていたポリ袋のなかに落とし、半分に切ってから片方をかじった。もう片方は側に置かれた棚のうえ、広げられたティッシュを下敷きにことりと置かれた。
「たいしたことはないって」
「おお」
「左腕の切り傷と……それから足の捻挫、ね」
「捻挫かこれ」
「『すきなように生きるのは止めやしないけどせめてからだくらいは大切にするべきだと思うよ』」
「? お医者サマ?」
「そう」
「はは、ながいつきあいだもんねえ」
へらり、わらう。わたしがこの世を間接的に疎んでいるのをよく知っているひと。
わたしがどれくらい眠っていたのかたずねると、リンゴの汁を舐めた林檎姉はちらりとこちらを見、「四日」と答える。四日。四。不吉な数字。それも今更、気にもとめない。きっとわたしがこんな狭苦しいところにいるのはこんなふうに血液を代償に怪我を負ったからなんてことじゃないのはわかっていた。そう、わたしが世界の隅へじりじりと領土をせばめられていく理由はただひとつ、わたしのなかみのせいなのだ。こうして薬品の匂いのする部屋にいるのは怪我したからではない、目が覚めなかったからでもない。わたしがとびおりたからなのだろう。ふつうじゃないことをしたから。正気の沙汰じゃあないであろうことをしたから。枠からはみ出すようなことをしたから。そんなのは知っている、けれどこれはわたしの物語。自由にやって誰に咎められる言われはない、のに、なあ。
(ふたりがあんな顔、するんだもの)
「今回の入院費は叔父さんが出してくれたから」
「……わあ」
「借りが増えるのはあまり歓迎しないから私も白雪が入院するのは勘弁して欲しいわ」
「心配してくれるもんね、林檎姉は」
「勿論」
私はあなたの姉だから。
そう答えた林檎姉はしゃくしゃくとアグレッシブというか豪快にリンゴを食べながら手際よくもう半分のリンゴを一口大に切り分けてわたしの口に差し出す。
「はいあーん」
「あー」
むぐ。しゃりしゃりしたリンゴは喉が渇いていたことをようやく気づかせてくれる。そこで目覚めたばかりの病人にリンゴを食べさせるのはどうなんだろうかという疑問がうかんだけれど、それはそれ、これはこれ。わたしの姉は常識にしばられるにんげんじゃあない。良くも悪くも。リンゴは美味しかった。
☆★☆
それから一週間、わたしはずっと病院で辛気臭い消毒液の香りをずっと吸いこんでいた。そろそろお盆だなあと、テレビのむこうの高校野球をみながらなんとなしに思ったりした。蝉の声は相変わらずやかましい。
目が覚めてから三日目には学校のえらい先生たちがわらわらとわたしの病室にやってきて、林檎姉にいちど会釈してぺちゃぺちゃ喋ったあとにわたしにいくつか質問をして帰っていった。曰く、
「どうして飛び降りたのか」
「なにか悩みでもあったのか」
「春田貴和子さんとの面識はあるか」
「彼女についてなにか知っているか」
わたしはすべてに笑顔でわたしなりの返答をした。怪我はたいしたことはないし、どうして飛び降りたかなんて聞くのは野暮だ。悩みなんてその日の夕ご飯はなにかぐらいしか思いつかない。なにより最近の悩みなら病院食のメニューがいちばんトップにあがってしまう。ハルタサン……のなまえを既に忘れかけていた自分にちょっとびっくりしたけれど、考えてみればわたしは彼女にわずかではあるけれど感謝だってできちゃうのだ。わたしにきっかけをくれたことは、わたしからしてみればかなり歓迎すべきことではあったから。まあ、もう会うつもりもないんだけど。
先生たちの目はまるでカメラのレンズみたいに人間味がなくて、わたしは少し退屈だった。目を覗き込んでもそこにわたしひとりしかいないのだから、つまらない。先生たちはわたしの返答にあまり満足していないらしく、何度も本当にそうかだのきみはそれでいいのかだのと言っていたものの、わたしがへらへらわらっているのを見てあきらめたようだった。その表情のなかに多少なりともやっぱりか、といういろがあったのはたぶんおそらく見間違いではないんだろう。わたしの立つ場所は、彼らとはちがっているんだろうから。
その後はとくになにもなく一週間が過ぎて、わたしは退院の前日をむかえた。あっくんとのーくんが来ることは、なかった。ちょっとだけ不満だったけれど、林檎姉がいうところによれば、「きっと学校やらなんやらの事情で忙しいのだろう」だそうだ。それもごもっともだったので、わたしはちぇっと唇を尖らせた。携帯電話は落ちたときにポケットから飛び出して落下して大破したらしく、文明の利器による連絡はのぞめなかったのもおおきいかもしれない。荷物(といっても、わたしが暇つぶしをするための携帯ゲーム機だとか漫画だとかルービックキューブだとかしかない)の整理をしていると、ふいにドアがノックされた。とんとん、とリズミカルな音に振り返る。
「はーい?」
ひょいっとドアのほうに顔を向けると林檎姉が入ってきて、
「おともだちがきてる」
「おともだち?」
きょとんとして林檎姉の目を見返す。わたしとおんなじいろの目がゆっくり瞬かれる。あっくんとのーくんであれば、林檎姉はそんな言い方はしないだろう。とすると、だれだろうか。ちなみにわたしにはほとんどといっていいほどともだちがいない。しかもいるのはおとこのこばかり……それでも、片手で数えられる程度しかいない。あんまりわたしはまわりに溶け込めるタイプではないから、しかたないのだ。ポジティブにいこうぜ! ひとりでそんなことをかんがえていると、林檎姉がわたしの疑問符のくっついたさきほどの台詞にこたえるように、
「とってもきれいな子」
「?」
わたしは林檎姉の背後をみる。目が合った。オレンジの目と青いサイドテイル、一瞬少年かと見間違うような細腕と体躯。つい最近あったはずなのに、ひどくひさしぶりに感じる。
「やあ……元気だったかい」
迷継ちゃんがそこに立っていた。うっすらと笑みを浮かべて、制服姿だった。なぜか手にはビニール袋をさげていて、その中身である桃と……折り紙で折った鶴らしきもの、が透けていた。わたしは口をぽかんとあけて、予想外の訪問者にとりあえず、「ひさしぶり?」とこたえた。