泥まみれの靴

 
 
  
 意味がわからなかった。追いつめられていたのは私のほうだった。なのに彼女は落ちた。にこりとうれしそうにわらってへりに飛び乗り、笑い声を上げてその向こうに落ちていった。
 意味がわからなかった。
 私のうわごとのなにかが彼女のトリガーとなったのだろうか、けれどそんなことを考える余裕もなく、私はしばらくそこに立ち尽くしていた。彼女の笑顔が脳裏に焼きついて離れず、吐き気がしたところで我にかえった。澄み切った青空も、今ではおぞましいものにしかみえない。
 口もとをおさえ、吐き気を押し込みながらよろよろと床に落ちた鞄を拾い、私は屋上を出た。そして階段を駆け降りる。嫌な汗がずっと背中に滲んでいる。胸のうちにはぐるぐると混ざり続ける濁りだけが満ちている。気分が悪い。
「……私の、せいじゃ」
 言い訳のようなことばがふとこぼれる。そうだ私のせいじゃない。あの子が勝手に落ちたのだ。私はなにもしていない、あの子がひとりで、やったことだ。私にはなんの関係もない。わるいのはあの子、いまごろ見るも耐えない無残な姿で散らばっているであろう、
「う、」
 吐き気。やたらめったらに走ったせいで足元がおぼつかない。校門をくぐり抜けて行く先もろくに確認せず、ただ学校から遠ざかるためだけに棒きれと化したふたつの脚を動かした。振り向かなかった。落下した彼女の末路など確認したくない、そこに私との因果関係をみつけたくなかった。
 ……そもそも私のしようとしていたことは、あの子にはまったく関係の無いところで始まり、終わるはずのことだった。けれど、……彼女にちかづいてしまったのは私だ。あの男の弱みが彼女だと気づいてしまった。だからそれを利用して崩そうと思っていた、のに、
(真逆、)
 それがあんな……ばけものみたいな、常識はずれで浮世離れした、確実に『ずれた』にんげんだとはおもわなかった。そんなの予想できるわけない。『あれ』はたやすくそこらにいていい人種じゃない。私だけじゃない、きっとだれしもあの子と対峙しただけでこうなるのだ。彼女の『ずれ』にこちらの身が持っていかれそうになって、こうなる。
(失敗した、失敗した、失敗した、失敗した!)
 もう駄目だ。私はもう、駄目だ。あのこのために復讐を誓ったあの日が既に遠い。それほどまでに私は憔悴していた。未知の脅威にあてられて、世界が反転して、ひっくり返ってみえる。胸のあたりが気持ち悪い。どくどくどくと喧しい心臓の音に膝が震える。顎まで落ちた汗がやけにつめたい。脳みそだけがあつい。

 ─────カンカンカンカン、

 気づけば踏切のまえにたっていた。赤いランプの点滅。脳を支配するかのように甲高く鳴り続ける音。鼻につく草の匂い。視界の端では忘れ去られたような彼岸花が一輪。
 鞠桐白雪の笑顔を思い出す。晴れやかで底知れない明るさを保ち、瞳はつめたくけれどなにかを渇望するようにかがやいて、そう、まるでこれから自分の身を包み込むであろう『それ』に、魅入っているような、その姿が、
(……うらやましい、)
 コンクリートと鞄がぶつかって硬い音がした。ちからの抜けた指先をぴくりと痙攣させる。見開いた両目にうつるのは黒と黄色に塗りつぶされたスタートライン。よろよろと、もつれそうになる足を引きずりながら前に出る。
 私はそこに、あのこをみた。
 気弱に笑う顔。大切だった。身長も体重も成績も平均、でも私にとっては天使だった。私の世界に色をつけてくれる存在。はじめてだという自身の恋に、頬を染めふわりとわらうその顔がだいすきだった。でももうあえない。私のそばにいてくれない。そのはずだったのに、
「      」
 なまえを呼ばれた、なまえを呼んだ。焦れったいくらいゆるやかにのばされた腕がみえた、その瞬間に轟、と風が、吹いて、
「───ッなにしてんだ、アンタ!」
 私は現実に引き戻される。私の左腕が掴まれている、にんげんの血潮が通う指が、私の左腕を掴んでいる。焦ったような顔の男子高校生、見慣れた延寿高校の学ラン、背負ったのはテニスラケットかなにかの大きな鞄。
 そこまで目で追ってから、私は先程までみえていた白昼夢を思い出す。あのこが立っていたそこには、大きな鉄の塊が通り過ぎていくところだった。車輪がレールと擦れる音に、最後に見た彼女の困ったような笑顔を思い出して、私は背後の彼の腕を振り切り、道の脇で嘔吐した。