脳内ハウスマーマレード

 
 
  
 大切な子が、いたのです。
 その子はいつも困ったようにわらういい子でした。成績は並、目立った特技もないけれど、それでもやっぱりいい子でした。それはもう、恋してしまうくらいには。
 私は彼女のためならなんだってできました。彼女のとなりにいれば、なにも私を止めることはできません。だって愛のちからは偉大なのです。私を阻むものはなにもありません、私の邪魔をするのなら、なんだって壊してしまいましょう。
 けど、……けれど。それも過去の話です。大切な子が、『いた』のです。それはどう足掻いたところでもう帰らない過去。いくら後悔したところで、取り戻すことのできない過去。
 私は決めました。彼女の無念を、彼女の後悔を、私が晴らす。そのためにはまず、あの男から。

☆★☆

 焼けつくような日差しに汗がちりちり焦げるような錯覚に襲われる。喉を鳴らしてスポーツドリンクのペットボトルをかたむけて、そこで中身がすでにからっぽになっていることに気がつく。わたしはしばらく考えて、あきらめてキャップを閉めた。
 屋上である。人気はなくがらんとしている。夏休みは遊びまくろうと思っていたけれど、そういえば文化祭の準備なんてものがあったっけ。うちのクラスはなんていったか、喫茶店かなにかをやるらしい。というのもわたしがそれを知ったのは今日なのである。たぶん決めた時わたし寝てたかサボってたかしたのだと思う。うん、いつものことだ。そしておひるごはんたべてくると口実をつけ教室を抜け出したのがついさっきのはなし。
 いやあ、清水ちゃんたちがたぶん部活で不在なのに、わたしがあそこにいる意味はあんまりない。あそこはわたしの世界のいちぶではあるけれど、重要な場所かと問われればイエスとは言い難い。そこではないのだ。わたしの居場所、わたしの世界はたぶんもっと狭い。わたしの世界は囲われていて、両腕をのばしてもまだ余裕はあるけれど、それでも限りある場所なのだ。つまるところ、ちっぽけなわたしを閉じ込めておくための場所。
 コンクリートのへりからグラウンドを見下ろすと、野球部やらテニス部やらサッカー部やらが練習をしているのがみえた。……そういえば、のーくんはどうしてあんなに中学時代をつぎこんだサッカーをやめてしまったのだっけ。あんなにたのしそうに、ただ一生懸命に、それしか時間の過ごしかたをしらないといったように、それしかみていなかったのに。
「……なんでだっけ」
「───ああ、やっぱり、ここにいた」
 わたしのひとりごとにかぶさるように、声がした。それはわたしの背後から響いた。ガラスのように透き通った声だった。ただし、それはすぐに蝉の鳴き声に覆われるようにして、消えてしまったけれど。
 振り向いた先にはみたことのある女子生徒が立っていた。長く垂れた艶やかな黒髪。均整のとれた体つき。こんな暑いなかでも、ほとんど着崩していない制服。肩にひっかけた薄っぺらなトートバッグ。
 そこまで目で追いかけてから、気づいた。顔がみえない。水を垂らしたように顔だけがぼやけている。ゆらゆらと水面のようにそこだけが揺れていて、わたしは首をかしげた。既視感。だれだっけ、これ。
「まえに屋上がすきだってきいてたから……もしかしてと思ったら、やっぱり」
 ふふ、とひそやかな笑い声。上品な笑い方だな、と思うのと同時に、はたしてわたしはそんなことをだれかに漏らしただろうか、とも考えた。
「私ね、またあなたとお話したくなったの。だからずっと探してたんだけど、鞠桐さん、なかなかみつからなくて」
 夏休みだからかな、と微笑むそのひとはゆっくりわたしの近くへ歩いてきて、わたしの目の前で止まった。わたしはそのひとの顔だけをずっとみていた。ゆらりと蠢く眼球だけが垣間見えて、またゆらめきに埋もれて見えなくなる。
「今日も暑いね、鞠桐さん」
「……あなただれだっけ」
 思っていたことがつい口からぽろっと落ちてしまった。彼女のちいさく半開いた口だけがちらっとみえて、やがてそれが噤まれる。
「……そうよね、だって一度しか話していないものね。忘れられていても仕方ないのかな」
「?」
「春田貴和子、なんだけれど」
「………、あ」
 思い出した。『ハルタサン』。あっくんのカノジョ。わたしにオトモダチになってほしいと言ってきたひと。
 彼女の口もとは困ったような笑みをうかべている。ふと、彼女にわたしはどうみえているのかな、という考えが頭をよぎる。わたしに彼女はみえていない。
「……うん。思い出した。そのハルタサンがわたしに何か用なのかな」
「思い出してくれたんだ、良かった。用っていうか、その、またお話したいなって思っただけなんだけど」
「わたしと?」
「そう」
「……」
 わたしは屋上のへりから手を離して、からだをちゃんと彼女に向けた。なんとなくだけれど、違和感があった。これはちがう。そぐわない。これまでわたしの世界に干渉してきた誰も彼もがこんな反応はしなかった。わたしは知っている。この匂いはうそつきの匂いで、そして彼女の眼球は策略家のまなざしを持っていた。
 黙っているわたしを見かねてか、彼女が自分から口を開いた。しばし話題に困っているようで目をせわしなく泳がせていたけれど、やがて困ったように笑って、言った。
「……どうしてあの時、うそつきだなんて言ったの?」
 あの時。あの時とはたぶんわたしと彼女がはじめて会ったときのことだろう。というかわたしはあそこでしか彼女と会ったことがない。それ以来、彼女のことを思い出すこともなかったし、……否、一度だけ思い出したっけ。あの日、あっくんとでかけた時に。
「私、あなたの気を悪くするようなこと、言ったかな」
「うん?」
 わたしは彼女から目をそらして、一歩横に跳ぶ。彼女を視界に入れぬまま、ひとりでくるりと一回転した。
 ひさしぶりだ、この感覚。ふつふつと心臓の裏側が泡立つような、お腹のあたりがあつくなるような。目の奥がちいさくうずいて、すっと思考が冷める。
「わたしはただほんとうのことを言っただけだよ」
「……ほんとうのこと?」
「だってあなた、うそつきの匂いがするもの」
「……どういうこと?」
 ここではっきりと、彼女の目に困惑の色が浮かんだ。懐かしい目だった。そう、あの頃はよくみたまなざし。あの頃、わたしにその目を向けるひとは両手両足の指じゃあ足りないくらいの数、いたものだ。その目からわたしを守ってくれた林檎姉は、今ここにはいない。でもあの頃、守られていたわたしは悟っていた。幼いながらにわかっていた。その目はこの世界じゃああたりまえのものなのだと。ここではわたしが異端であり、彼ら彼女らがふつうであると。だからわたしは、自分の世界を、
「わたしは知ってるの。ちいさなころはね、わたしに寄ってくるのはうそつきばっかりだった。だから覚えたんだよ、そういうひとたちの匂い。あなたからはその匂いがする。どうして? あなたはあっくんのカノジョ、なのでしょ」
「……私は嘘なんて吐いてないよ」
「そう?」
 蝉の声がしている。いつのまにか彼女の顔は青褪めている。表情は、変わらない。さてはて、わたしはいまどんな顔をしているんだろう。わらっているのかな、と唇の端を指で撫でるとなぜだかゆがんでいた。たのしくなんてないし、うれしくもないのに、なんでだろう。けれども確実にいえるのは、わたしは、どきどきしていた。わたしの背中を押すなにかを、知覚して。
「つぎはわたしが質問する番だね、いいでしょ」
「……え、」
「ハルタサン、あなたどうしてあっくんのカノジョになったの?」
 金魚みたいに彼女の口が開閉し、やがて取り繕うように笑顔がそこにきざまれた。
「……前から、前からね、吾妻くんにあこがれていたの。だから、」
「あなたのまえのあっくんのカノジョって階段から落ちたんだって」
「……え」
「事故なんだっけ? そう、ちょうどこの屋上から降りて三階の踊り場から、どーんって」
「それは、」
「足をすべらせたのかな? それとも余所見でもしてたのかな? どうだろうね」
「……さあ」
「そのまえのカノジョは悪い噂がたったから。未成年喫煙に飲酒……田舎だからね、珍しくないけど。でも、悪い子」
「……」
「これぜんぶ、わたしのおともだちがおしえてくれたの。あの転入生ちゃんはいったい毎日なにして過ごしてるんだろ。それに、来る前のことまで知ってるんだもの、すごいよねえ」
 このまえの補習の時間、プリントと格闘するわたしのとなりで訥訥とよくわからない話をしていた迷継ちゃんのことを思い出す。彼女はこれを予想していたのだろうか。迷継ちゃんなら、ありえるかもしれない。だってあの子はファンタジーな生命体らしいから。……ああ、それはわたしもなんだっけ?
「それからつぎは」
「!」
「そう、あなたのまえのまえのまえ……ってなんかくどいなあ。まあいっか。その子はね、今じゃ登校拒否なんだって」
「……、っ」
「なんでだろうね。それにもあっくんが関係してるのかなあ。でもきいてもこたえてくれないよきっと。だってあっくんだもん」
「………」
 みるからにハルタサンの顔色が悪い。その肌を垂れ落ちる汗は、はたして暑さだけによるものなのだろうか。噛み締めた唇がひきつれている。あかい、唇。それとは対照的に、青白く醒めた肌。
「……ねえ、ハルタサン」
 わたしはわらった。今度こそ、わらってみせた。目を細めて、口の端を上げて、わらった。
「ここにほんとはなにしに来たの?」
 ハルタサンの肩が跳ねた。ひきつったような笑みには既に完璧さがない。
『情報っていうのはね、とても重要な武器なんだ』
 迷継ちゃんの声が耳の奥で反響した。
『なんでそんなことを知っているのか、その動揺はけしてちいさなものじゃあない。それに持っている情報量はアドバンテージになる』
 そのときはただ、ふうん、と思った。わたしはそういうタイプじゃないし、そもそもこれは戦いじゃあないのだ。ただわたしが語るだけ。発されたことばがだれをどう抉るのか、それはたいした問題じゃない。
「だから、その、話を」
「何の話をしにきたの?」
「……なんで、そんなこと」
 眉を下げ、焦ったように笑っている彼女の目がくっきりとみえる。その目はわらっていなかった。
「あっくんはわたしがここによく来るなんてこと、あなたに教えないと思うんだよね。だってあっくんだから」
 わたしは知っている。あっくんは取っ換え引っ換えしているたくさんのカノジョたちに決してわたしのことを口に出さない。向こうからわたしのことをたずねられたときは、露骨に機嫌を悪くすることも。けれどその理由がどこにあるのか、わたしは知らない。だってそんなこと、知らなくてもいいのだ。わからなくて、いいのだ。だってわたしにとって、彼はどうあっても大切な幼なじみなのだから。
「じゃあどうしてそれを知ってるの? どうしてあなたはこんな人のいないところでわたしとふたりきりになることを選んだの? そのかばんの中身、なに?」
 指をさすと、ハルタサンはさっとかばんの持ち手をにぎりしめた。
「……何の話を、しているの?」
「なんでだろ。どうしてかな。けどそんなこと、どうでもいいの」
 ハルタサンの薄っぺらなトートバッグ。けれど表面に浮き出た輪郭から、やたら中身が詰まっているらしい。それらがどのような用途でつかわれるために存在しているのか、わたしは知っていた。けれど、それは些末なこと。ほんとうにどうでもよくって、わたしの世界には関係がない。それなのに、そのはずだったのに、ね。
 わたしは数歩うしろに下がる。とん、と背中が屋上のへりにぶつかった。コンクリートはやはり熱を持っている。わたしの顎からも汗が落ちる。ああ、夏だ。
「やっぱりあなたはうそつきだね」
「……っ、さっきから、何を言ってるのかわからないよ」
「そう? わかりたくないの?」
「ぜんぶ的外れよ、鞠桐さん……私はただあなたのことを知りたいだけ、なのにどうして」
「なんでわかんないの?」
 首をかしげる。目をちゃんとひらいて、彼女を見据える。けれどぼやけた輪郭はもどらない。その眼球が揺れるのだけが変わらずにみえている。
「そういうのの話をしてるんだよ、わたし。だからあなたがうそつきだって言ってるんだってば。ねえ、言っちゃえば楽じゃないの?」
「……堂々巡りにしかならないわ。どうしてわかってくれないの、私はなんにもしていないのに、それなのに、……そんなに私のことが嫌い?」
「きらいとかそういう話はしてないよ」
「でもそういうことでしょう、だからありもしないことで私を責めて」
「ありもしないことかあ」
 どうやらハルタサンは苛立ち始めたらしい。演技の端々がほころびはじめている。わたしは唇をとがらせる。ああなんかめんどうくさいな。
「ねえ」
「……」
「わたしになにかすればあっくんが揺らぐと思ったの?」
「!」
 明らかにハルタサンが動揺した。ああやっぱり、そういうこと。彼女の目的はわたしじゃない、あっくんだ。まあそうだろう、わたしが目的ならあっくんに近づく必要なんてない。彼女はただ、あっくんにだけなにかを為そうとしているのだ。わたしの世界の重要な歯車である、あっくんに。
「それはあんまり許せることじゃないし、そもそもそんなことしても意味なんてないよ。だってあっくんは知ってるもん、わたしがどういうふうにしてこれまで生きてきたのか」
「……私は、」
「あっくんに手出しはさせないよ」
 まるで漫画の台詞みたいなことを、わたしは口にした。けれどそれは紛れもなく本心だ。わたしの大事な歯車。わたしの世界のいちぶ。重要な核のひとつ。だからわたしはあっくんにものーくんにも、害を為させはしない。それがわたしのたったひとつの使命のようなものだ。わたしの世界を守るための、エゴ。
「……どうして」
 ハルタサンの長い髪がざらりと揺れた。その隙間からまた眼球が覗く。ぎり、と細い指が握りこまれるのがみえた。わたしの一言はどうやら彼女のなにかを崩したらしい。その肩からトートバッグがどさりと落ちた。うつむいた頭が小刻みにふるえている。
「どうして、どうして、どうして、……私は、だって私は、あのこのために、あのこだけのために」
「………」
 彼女の目は既にどこをみているのかわからない。わたしはよくみてきたこの末路をただ傍観していた。うつむいていたハルタサンはぶつぶつとなにかをつぶやきながらよろめくように近づいてきて、わたしの肩あたりに手のひらを押しつけて独白をつづける。わたしは触れられた肩の骨がぎしり、と軋む音を幻聴する。
「だって、ねえ、おかしいじゃない、どうしてそんなふつうのひとみたいに、あなたが。……そうあなたが、あなたがどうにかさえなれば、簡単な話なのに……!」

 思考が、とまった。

「……わたしが、どうにか?」
「そう、だってあの男のせいであのこが、だから私は、仕方ないから、ねえ、だって」
 支離滅裂な囁きを続けるハルタサンはわたしの肩に置いた手にちからをこめる。わたしの足はそんなちからじゃよろめきもしないけど。ハルタサンの垂れた前髪の隙間から見える眼球が、輪郭を結んだ。その眼はわたしをみている。明確な敵意をもって、わたしをみつめていた。
 ───唐突に、耳鳴りを聞いた。キイイン、と高い音が頭を埋め尽くす。ぞわ、と指先からなにかが滑り落ちる感覚。首筋から血がさあっとひいていく。目の前が白む。心臓が高鳴る。やかましいほどに動悸が激しくなり、息が詰まる。
『わたしがどうにかなれば』。
 真っ青な空が目に痛い。蒼白な顔のハルタサンなんてもう、眼中にない。息がうまく吸えない。浮遊感。浮き出る汗の雫ひとつひとつが灼けるように熱い。でも身体の芯がつめたい。かちり、となにかのピースが嵌る。かがやきがわたしの頭のなかを蹂躙する。脳裏になにかの影がよぎり、そしてわたしは気づいてしまった。わかってしまった。思い出してしまった。
 ああ、そうか。やっぱりあなたも、そうか。あっくんをどうこう───なんて、でもやっぱり、結局はそう、そういうことだ。私の行きつくところなんて、そこにしかない。
「……そっか」

「わたしにしんでほしいんだ?」

「……………………………え?」
 ハルタサンはほうけたような顔をした。わたしはまた、わらった。それはよく言われてきたことば。わたしのはじまり、少女だったわたしのおわり。そうだ───背を押してくれるなら、それはだれだってよかった。どうして忘れていたんだろう。
 笑い声をあげて、わたしは屋上のへりに飛び乗った。だってわたしの脚力はアスファルトをも砕くのだから、これくらいは朝飯前だ。握りしめていた空のペットボトルはそのへんに放る。吹き荒れる風がわたしの蜜色の髪の毛をばさばさとはためかせる。気分が、高揚する。
 もうなにもかも、先ほどまでの会話も、先ほどまで胸に満ちていた使命感も、なにもかもがどうでもいい。だってわたしは気づいた。彼女がわたしに求めていることがなんなのか。なんだ、そういうこと。それはわたしの運命だ。だったら逃れる理由はない。むしろ歓迎すべきことだ。たとえこの目の前にいる彼女でも、わたしを■してくれるなら───わたしは、甘んじてそれを受けよう。さっぱりした気持ちだった。わたしにとってそれは、ある意味ゴールなのだから。
 見開かれたハルタサンの眼球、そして突然その顔にわたしの焦点があう。くっきりとみえた彼女の顔は、呆然としていた。なにがおきているのか理解していない。目を見開いて、唇を半開きにして、わたしを凝視している。とってもすてきな顔だ。わたしはわらう。ずいぶんと昔のことを思い出す。けれどもう、いいのだ。
「あは」
 踵を上げる。腕をひろげて、わたしは浮遊する。浮かぶ。けれどもちろん、にんげんにそんなことは不可能だ。あの夢でもあるまいし。だからそれは一瞬の錯覚。わたしは落ちる。落ちる瞬間にはもう彼女のことなんて頭にはない。ただ目に色鮮やかにうつる景色を追い求めて目を見開いて、

 そしてわたしは落ちる。