以上。
瀧山紀仁が鞠桐白雪について思い浮かべる有象無象。
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ド田舎であるところの延寿高校、その特別棟に位置する生物準備室にエアコンなどという文明の利器があるわけがない。蒸し暑い室内で、瀧山紀仁はひたすらくりくりした瞳の爬虫類と向き合っていた。
机のうえに置かれた飼育ケースのなかをするすると移動するその体躯、濡れ光る鱗はいつみてもきれいだ。じっとそのようすを見守る。飽きることなく。紀仁は机に突っ伏すような格好で暑さに溶けそうになりながら、とくにすることもないので爬虫類に見入っている。
ほんとうはこの後自分のクラスに赴いて文化祭の準備を手伝う予定だったのだが、この暑さにやる気なんてものはとうに吸い取られていた。むこうに行ったとして、やることは結局きのうと同じこと。ただのくりかえし。
「……おまえはあつくなさそうだよなあ」
爬虫類に話しかける自分はわりとやばいやつなのだろうか、と常識的な脳みそで考えつつ、紀仁はそう漏らした。きゅるりと動く爬虫類の眼球はけしてこちらをみない。紀仁はやはり帰りたくなった。家にいる愛しのペットとだらだらしたいという欲求がふつふつと湧いてくる。ここにたくさんある飼育ケースのなかで息をひそめている彼らのことももちろんすきだ、しかしやはり家で待っているゴライアスは紀仁にとってとくべつだった。その嗜好が少なからず世間とずれていたとしても。
目の前の爬虫類をはじめとしたこの準備室の仲間たちの餌をそれぞれ棚に仕舞い、とりあえず携帯をとりだすと、ちかちかと画面が瞬いている。何事かと文字の羅列を見つめれば、あの騒がしく喧しい幼なじみからのメッセージがとどいている。よくよくみれば、それは秋日も含めた三人のグループで発されたものらしい。
不思議に思う反面またなにかくだらないことでもしゃべくっているのだろうとひらいてみると、めずらしくまともに、だれか一緒に帰らないか、という内容だった。夏休みであるから誰かしらまだ学校にいるんじゃないか、という仄かな希望なのだろう。タイミングの良さに、気分がすこしだけ上がる。今日も清水も宮浜もやはり運動部なので練習らしく、紀仁は暇を持て余していたのだ。
生物部はそこまで部員がいるわけでもなく、活動はここに住むこまごまとした生き物たちの世話くらいで基本的にゆるい。一年の紀仁しかここにいないことも顕著にそれをあらわしている。紀仁はそれに若干の虚しさを感じていた。中学時代の時間のほとんどを費やした球技も、もう長い間やっていない。すべてを後回しにしてでもそれを優先していたというのに、あの費やした時間が無駄だったという気がしてならない。
ずきん、と癒えたはずの両膝が傷んだような気がした。彼の背後に並んだ水槽の中で、水中を這う海藻だけが虚無を抱くその背中をみていた。
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瀧山紀仁にとって鞠桐白雪はただの幼なじみではない。
そもそも紀仁と白雪の出会いは小学生三年生の頃だった。紀仁が三年生になった春、クラスにたったひとつだけ、ぽつんと取り残されたような、からっぽの席があった。学年が変わり始業式の日も遠足の日も運動会の日も、その席の主が現れることはなかった。当然だ、そこに座るはずの人間は、春休みに大怪我を負ったせいで病院から出られなかったのだから。
夏休みが明けても埋まらないその席が席替えでとなりになったとき、幼き瀧山紀仁はただ先生の目を盗んで物が置けるなあと、そんな子どもらしいどうでもいいことしか考えていなかった。しかし、彼がその一人席を楽しむ時間はそう長くはなかった。
九月の終わり。その席の主は、前触れもなく学校にやってきた。
左目を覆う眼帯、矮躯のところどころを隠したガーゼや包帯。今よりもずっとみじかく切りそろえられた髪はやっぱり蜂蜜色で、朱いその目は爛々とした光をたたえていた。彼女は隣の席だということをいいことにやたらと紀仁に絡み始め、やがては紀仁にとっても彼女にとっても、それぞれがとくべつになっていくこととなる。
(……秋日さんも学校にいたのか)
携帯をひらくと、その旨が紀仁の尊敬する吾妻秋日のシンプルなアイコンからとびでた吹き出しのなかに記されていた。ただ、すこしだけ遅れるという。ぼんやり熱をもったシリコンカバーを撫でると、即座に白雪からも返信がくる。暇なのだろうか。首を吊りながらも笑顔をうかべたうさぎのキャラクターのアイコンは、昇降口にて集合だと叫んでいる。それに了解のスタンプをかえしてからぺらぺらのリュックをかつぎ、生物準備室を出た。
紀仁が吾妻秋日と知り合ったのは、白雪を通じてだった。四年の春グラウンドでハイテンションな白雪に引き合わされ、お互いの顔を一目みて(ああこいつも白雪に振り回されてるんだな……)という妙なシンパシーを感じ、仲良くなった。紀仁にとって秋日は博識で落ち着きのある格好いい年上の友人であった。
紀仁は生物準備室の鍵を閉め、渡り廊下を歩く。窓の外はやはり快晴。お昼をたべていないせいでおなかがすいている。遠くからはどこかの部活の掛け声が響いてきた。見覚えのある教師に会釈して、じわりと浮かぶ汗をぬぐう。
鍵を返す際に職員室から申し訳程度に漂ってきた冷風がうらめしかった。(はやく帰るはやく帰る……)呪詛のごとく脳内で繰り返しつつ、昇降口へと早足で向かう。音を立てて下駄箱を開け、スニーカーに足を突っ込んで外に出てみるも、白雪も秋日の姿もなかった。まだきていないらしい。
(まじか……)
またも浮かぶ汗の粒に苛立つ。自分の気が短いということは理解しているが、この暑さでは仕方ない事だと思う。携帯をとりだしてみるけれど、だれからのメッセージもない。とりあえず待つことにして携帯をいじっていると、ふと昇降口のなかから声が聞こえた気がして、ひょいっとちかくの透明な扉の脇からなかをのぞきこんでみる。
みえたのは秋日の後ろ姿と、彼のまえに立っているひとりの女子生徒の姿だった。
「!」
あわててすぐよこの柱にからだをひそめる。一瞬のうちに心臓がひやりとした。自分で自分の行動に疑問を覚えたが、それどころではなかった。小心者のような自分の行動に後悔しながら、そろりとまた顔を出す。間違えようがない。何度も目にしてきたその後ろ姿は、秋日のものだ。斜めに構えているようでいて、芯の通った立ち姿。形の良い後頭部、横に抱えた通学鞄。そのまえに立つ女子生徒はさいきん秋日とつき合っていると噂のたっている、春川だか春岡だか、そんなかんじの名前の人物だった。紀仁も存在は、知っていた。
なんとなく、そう、なんとなくではあるが、紀仁は秋日の行為の意味がわかるような気がしていた。一部では女子をとっかえひっかえする軟派野郎だとかいわれているが、たぶんその裏には、紀仁たちにとっては残酷としかいいようのない笑顔をうかべるあの幼なじみの存在がある。ふたりとも彼女にとらわれているのだ。暗くてあかい沼にきっと、足を取られたままなのだ。
その女子生徒は困ったように笑っている。胸元まで垂れる長髪はきっと手入れが行き届いているのだろう、艶を持ってさらさらとまっすぐにのびている。整った容姿。同じく目を惹く美形である秋日と並べば誰しもお似合いだと感嘆するような、そんな容姿をしている。
「───だからね、これも何かの縁だから……一緒に帰りたいな、って」
声が聞こえた。その容姿に違わず、透き通るような声だった。声楽の分野に秀でているのだろうか。紀仁はじっと秋日の後ろ姿をみつめた。なぜか死刑宣告でもされるような感覚に陥る。もしもここに白雪があらわれたら、という危機感ももちろんあったのだが、それ以上に、自分の尊敬している秋日の返答がなんとなく予想できたのだ。そして、それが正しければ、紀仁は秋日におそれを抱くことになる。理解してしまうからだ。
彼が自分よりも深みにはまっていることに。
「……そういうの、いらねえよ」
冷めきった声だった。感情がわざと消し去られた声音。紀仁の眼窩が凍りつく。ちらりとみえた秋日の表情は無表情だった。そこにはうつろしかなかった。なにもないも同然だった。
「俺はそういうの、おまえに望んでないから」
「え……」
「そういうのじゃないってわかってんだろ」
「……吾妻くん」
「……あと」
あいつに余計なこというのやめろ。
放たれた声はどこまでも空虚だった。あいつ、という単語に瞼のうらで蜂蜜色の毛先がよぎる。蝉の声が耳朶をくぐる。紀仁はそこで立ち尽くす。見るべきじゃあないものをみた、といううしろめたさ、それからあきらめに似た同情がその身に満ちていた。
返答がないのをみてか、秋日は女子生徒をそのままに自分の下駄箱がある奥のほうへ歩いていく。取り残された女子生徒が伏せていた目をあげるのをみて、紀仁ははっとしてまた柱に背をはりつかせた。背中にいやな感覚。きづいてしまった、わかってしまった。秋日はきっと、
「のーくんなにしてんの?」
ぎょっとして心臓が口からでるかと思った。あわてて振り向く、そこにあまい蜜色の幼なじみがいることを確認する。きょとんとした顔をした彼女がそこに立っている。第二ボタンまではずした襟元がなぜかやたらと目についた。
「白雪、」
「もうさーあっついよねえ! めちゃくちゃ教室内すずしかったけど!」
白雪は遠慮なくべたべたとこちらに触れてくる。その指先はやはり汗でしめっている。むき出しになった健康的なふくらはぎがしなやかに空気を切る。
紀仁はそこでやっと、ずっと詰めていた息を吐けたことに気がついた。運の良いことに、白雪は扉の向こう側、さらに簀子の奥に秋日のカノジョがいることには気がついていないらしい。いまだにやかましい心音を落ち着かせる。しかし、気を取り直すよりもはやくに秋日がべつの扉から出てくるのがみえる。
「うおーあっくんおっそいよー!」
「遅れるって言ったろ」
「でもわたしとおんなじようなもんだったからゆるしてあげる!」
にこにこわらう白雪はやはり、さきほどのあれを目撃してはいないらしかった。一年の下駄箱は二年の下駄箱の反対側にあったおかげだろうか。
ふだんどおりにことばを交わすふたりと同じく歩き出しながら、紀仁は居心地の悪さを感じていた。きのうまでふつうに享受していた世界が、途端にそぐわないなにかに変わってしまったような錯覚。ちらりと秋日を見上げる、しかしその顔はやはりいつも通りだ。怯えるようにうしろを振り向く。あの女子生徒が気になった。あんなふうに邪険にされて、取り残されて、はたしてどんな表情をうかべているのか。
彼女はさきほどと変わらぬ場所に立ったままだった。顔には長い髪のせいで影がおちていて、表情がうまくうかがえない。革のスクールバッグと、うすっぺらいトートバッグを背負い直すのがみえる。その動作は緩慢だった。そのようすをみていると、ふと、目があったような気がした。
(え、)
笑いかけられた、ような。その意味をはかるよりも先に「ねえのーくん」白雪の声に、前を向き直さざるを得なくなる。挙動不審な紀仁を白雪は笑ったが、秋日はとくになにをいうこともなかった。それが逆に、紀仁はおそろしかった。
そんな紀仁を嘲笑うかのように、ひぐらしが遠くでないていた。