からり、と教室の扉があいた。手持ちぶたさにシャープペンシルをくるくるまわしていたわたしはそちらに目をやる。そこに立っていたのは何を隠そう、長く垂れたサイドテイルを揺らす転入生・迷継ちゃんであった。
「ご機嫌うるわしゅう迷継ちゃん!」
「……ああ、おはよう」
言ってから、彼女はゆっくりと教室のなかを見回す。この教室にはわたししかいない。そんなわたしは、いま机のうえにひろげたプリントとにらめっこしている。ぺたぺた音を鳴らしながらこちらにやってきた迷継ちゃんは、わたしの座る机(ちなみにこの机はのーくんのである)のひとつまえに陣取り、机のうえに腰を下ろした。ぼふん、とあぶなげなく空気をはらんだスカートの裾が、ひらりと本人の膝の上に落ちる。自然とわたしの目線はうえへ向く。オレンジ色の目は、今日も今日とてきれいだった。
「ここはきみのクラスじゃあないと思うのだけれど」
「そーだよーわたしの机たちはひとつむこうのクラスにあるもん。これはですねー補講だよ」
「ああ……確かうちのクラスの担任は、日本史担当だったっけか」
「そー! わたし日本史きらいなんだよね!」
ぐるんぐるんとあてつけのように手にしたペンを回し、ぽきりと折るジェスチャーをしてみせる。やってられないのだ、まったくもう! わたしがこんなにもきらいだとか叫べるのは、当のせんせいが「プリント解けたら教卓のうえおいといてよろしくー」だとかサボり精神に満ち溢れたことばを残して去っていったからだ。
「きいてよ迷継ちゃん、このまえのテスト日本史四十点以下わたしだけなんですって! 全クラスあわせても!」
「……このまえの日本史って、確か教師たちのミスで二点問題ふたつ全員丸もらえることになったし全体的に簡単だったから満点も学年に何人かでたんじゃあ、なかったっけ」
「しらないよそんなのー。いいもん赤点取らなかったから!」
でもそれだからってわたしだけとくべつに補講、なんて意味がわからない。せっかくの夏休みだっていうのに!
そう、夏休み。夏休みははじまったのである。なのにさー初日から補講だしさーせっかくさー帰宅部だからさー部活もないしさー家でクーラーきかせてさーテレビ鑑賞したかったのにー! さー!
「あーあーいまもしもグラウンドに謎の生命体が落下してきてわたしにしかわかんないような言語でしゃべってたらわたし補講しなくてもよくなるんじゃあないかなあーというかなるよね! たぶん!」
「補講はしなくていいだろうけど同時にあそべなくもなるだろうね、いそがしくなって」
「えっじゃあいまのなし」
ぶんぶんと目の前で両手を振る。ばってん。補講がサボれてもあそべなかったら意味無いもの。わたしはあそびたいのです。
それからわたしと迷継ちゃんはつらつらととりとめのない話をした。たとえば迷継ちゃんは何味のかき氷がすきなのかとか、お祭りの屋台ですきなのはなにかとか、線香花火得意そうだよねえだとか、そういう夏祭りを満喫したいわたしの勝手な質問ばかり。まったく手を動かさずに口だけ動かしまくるわたしに迷継ちゃんはとてもやさしかった。
わたしのマシンガントークが下火になってきたころ、ようやく迷継ちゃんから口をひらいてくれた。
「ところで」
迷継ちゃんは足を揺らす。上履きにはまっていたはずの踵が抜けて、上履きがつま先にひっかかる。ゆらゆらそれがゆれている。わたしはそれを目で追いかけつつ、聞き返す。
「うん?」
「きみ───なにか気に障ることでも、あったのかい?」
「……気に障る、こと?」
ことり、と首を真横に倒して、ことばを反復した。迷継ちゃんの目を見る。変わらない、オレンジの目だ。
気に障ること。きにさわる、? どういう意味だろうか。いつのまにやら空気がひやりとする。クーラーの効き過ぎだろうか。
「どうして?」
「そういう目をしている」
「そういう目?」
「澱のようなものが溜まっているようにも、みえる。それと、……このまえあったときより、揺らいでいるね」
揺らぐ。揺らぐ。
どきり、と跳ねた心臓を肌越しにおさえて、首をかしげる。自分のからだのくせに、理由がわからない。
「きみはひょんなことで崩れてしまいそうにみえるよ」
「わたしはそんなに軟弱じゃないよ」
「……そう? 本人がいうなら、そうなのかもしれないな」
ゆっくりつむいだことばに、迷継ちゃんはとくに反論せずうなずく。ほんとうに納得しているのかは知れない。わたしはどうして自分がこんなにゆらゆらした気持ちになっているのか、よくわからなかった。シャーペンを取り落としそうになり、あわててキャッチする。そのままくるりとまわして、つぶやく。
「うーん。気に障ること、なんてものはなかったけど、いつもとちがうことはあったかなあ。めずらしいこと、っていうの?」
「……なにかあったのかい」
「たいしたことじゃあないの。ただ、あっくんのカノジョさんにあっただけだよ」
炭酸水のボトルのキャップを開けたときみたいな音が、聴こえた気がした。しゅわしゅわと泡がはじけるような、なにかが溶けるような。きっと、幻聴だ。
「あっくんというのは、たしかきみの幼なじみさんだったね? ひとつ年上の」
「そうだよ。毒舌辛口のあっくん」
「彼の噂なら、僕でさえ耳にしたことがあるけれど……」
「うわさ?」
「女子生徒をとっかえひっかえしているらしいじゃないか」
「ああ。みたいだねえ」
からかい口調で女ったらしだとか呼ばれているのは知っていた。でもわたしは自分にその話はたぶん関係ないのだろうなあと思っていたから、その話をあっくんにふったことはない。
……ああ、そう考えると、このまえのはやっぱりとてもめずらしいことだったのか。わたしがカノジョさんの話をしたから。だから、あっくんはあんなにおどろいていたのかもしれない。
「あっくんのカノジョさんがわたしに話しかけてくるなんて、これまで一回もなかったもん」
「……それはそれは」
「でも───あっくんのカノジョなんて、わたしには関係ないよ」
「………」
「?」
唐突に迷継ちゃんが黙ったので、ふしぎに思って顔を上げた。それから、とてつもなくおどろいた。こんな字面じゃあ信じられないかもしれないけど、とてもびっくりした。なぜなら迷継ちゃんがぽかんとした顔をしていたから。わたしもおんなじようにぽかんとする。なにをそんなにおどろいているのか検討もつかなかった。
目をまんまるくして自分を見つめるわたしに、迷継ちゃんは「ああいや、すまない」と決まり悪そうに視線をそらして、ごほんと咳払いをした。彼女にはめずらしい、人間味のある動作だった。
「いや……そうか……きみの幼なじみさんたちが苦労するのもわかった気がするよ……」
「? どういう意味?」
「……そうだね、うん、きみは残酷なんだ」
自分じゃあ気づいていないだろうけどね、と迷継ちゃんは言った。わたしはぼんやりとそう言葉をつむぐ唇をみつめている。いつのまにか、まるで世界が黙りこくったかのように、雑音が聞こえなくなっている。この教室だけが隔離されたかのようだ。遠くからも、なにもきこえない。
「……残酷? わたしが? どうして?」
手のひらにのせていたシャーペンを放り出す。そんなふうに言われるようなことをした覚えはなかった。
「……『愛は万人に、信頼は少数に』」
机の上に腰を下ろし、わたしを見下ろす彼女が放ったのはそんなことばだった。聞きなれないことばに疑問符をかえす。なにかの……だれかの、ことばだろうか?
「シェイクスピアのことばだ。きみはたぶんこれをひずみとともに体現している。きみの愛はそう、特別的な例外を除いて、ほとんどのにんげんに対してそそがれるものだろう」
その言い方だと、まるでわたしが博愛主義者のようだ。それは置いておいても、……例外。例外か。
意識したことなんてないけど、わたしは基本的にだれのこともきらいにならない。あっくんとのーくんがすき。林檎姉もすき。清水ちゃんも宮浜ちゃんも、すきだ。わたしの抱く愛は、たしかに分け隔てなく多くの人に向けたものでは、ある。わたしの交友関係は基本的にうすっぺらだから、無責任とも呼ばれるけれど、だからこそだれかを積極的にきらうなんてことはあんまりない。それは「きらいじゃないからすき」なんていうあいまいなカテゴリーでもあるかもしれない。
でも、けれど───そんなあいまいな分類にも入れられない例外が、きっといる。それはそう、件の『ハルタサン』のような───
「そして『信頼は少数に』。きみのほんとうの意味での信頼を得ているのはきみがいうとおり、その幼なじみさんたちなのだろう。どうやらきみの指針は彼らのようだし───ね」
わたしの指針。道しるべ。
迷継ちゃんはがたりと机を揺らして腰を落ち着け直すと、足を組んだ。
「けれど、ね。彼らが君に望んでいるのは、ほんとうに純粋無垢な信頼だけなのかい?」
いつのまにか。
いつのまにか、迷継ちゃんの唇に笑みがうかんでいた。なにがそんなにおもしろいのかわからないけれど、わたしはたのしそうだな、とそれだけを思った。はじめて見る顔だった。そんなに長い付き合いではないのだけれど。
ふいに納得する。彼女がわたしと出会ったときに口にしたあのファンタジーちっくなことばの羅列に嘘がないことを。わたしはそれを理解していたはずなのだけれども、今になってその事実がすとんと胸に落ちたのだ。
すこしだけ考えてから、わたしは口を開く。
「……じゃあ、」
「うん?」
「もしも、もしも迷継ちゃんの言うことが正しいとして……ふたりがわたしに望むものって、なんだと思う?」
「……ふふ」
迷継ちゃんが、わらった。息をひそめたようなわらいかただった。それがとてもきれいで優美で、わたしはそれに気を取られてしまう。ああ彼女は、こんなふうにわらうのか。
「それはきっと、誰しもがこころの奥で渇望しているものさ」
それはまるで───人間を見下しているような、口調だった。