悪い子はいないほうがいい

 
 
  
 胸のうちに嫌な感覚がずうっと居座っている。ずしりと重たい鉛が心臓と入れ替わったみたいに、重い。うまく息ができなくて、ただ意識だけが鮮明に研がれていく。
「……ん、?」
 わたしは知らないところに立っていた。知らないところ───いうか、みたこともない景色がひろがっていた。見下ろせば足元にあるのは焦げた土くれ。視線をあげてみれば、そこらじゅうにただよう硝煙と、どこかなつかしさまでおぼえる死臭が鼻先に届いた。
 すこしだけ首をかしげる。しばしすかすかだと評判の自前の脳みそを回転させて考えるに、たぶんこれは夢だ。メイセキム、ってやつかしら。テレビとか本とかで見聞きしたことがあるような。
 夢ならば飛べるかな、と冗談で念じてみれば、ふわり、と足が地面から自然に離れて宙に浮いて、「うおう」と(夢のなかだというのに)ちょっとだけ感動してしまう。気づけば、背中には一対の白い翼が生えていた。首を回してそれを確認する。これがもとから生えていたものなのか、わたしが念じたために具現化されたものなのかどうかはよくわからないけれど、いまはただ飛べたということに感激しているのでそんなことは些細な問題だった。
 くるりと旋回して、面白くなってきて空中で二回転。ひとりわらいながらそのへんをふよふよしていると、ふいに目に飛び込んできたのは赤色だった。
「うぶっ」
 顔面にその赤色をしたなにかが叩きつけられて、もんどりうったわたしは羽根をうまくつかうことができず地面に落ちた。頭からじゃなかったのはラッキーだったと思う。いたた、と顔をしかめて身を起こすと、なぜだか顔にどろりとした感触があった。
「?」怪訝に思って手でさわってみれば、わたしの手のひらから手首に垂れたそれは鮮血だった。
 あかいろ。
「……」
 すう、と思考が冷めた。みぞおちのあたりがずしりと重たくなる。よっこらせ、と立ち上がれば、さきほどわたしの顔面に激突したそれが足元に落ちているのが見えた。肉塊だった。

☆★☆

「あーっくーん!」
 わたしと彼のうちの最寄駅のまえ、わたしはいったん家に帰ったので私服であっくんを待っていた。汗でべたべたしている制服は脱いだもの勝ちだと思うの。ここはどうやっても田舎なので、行き交うひとの数はまばらだった。そんなところで叫ぶ私の姿はめだつのだろう、視線があつまるのを感じたけれど、そんなの今にはじまったことじゃあないから無視だ。無視無視。そのままあっくんに向けて大きく腕を振る。
 ちなみにいうともうそろそろ夏休みだから、学校は午前授業でおしまいである。こんな田舎にはわたしが通う延寿高校くらいしかないものでして、自然と駅前には学生の姿が増えるのであった。わたしはたいして話したこともないひとの顔は覚えられない人種だから、そのへんを歩く学生が顔見知りかどうかもわからないわけですが。
 そんな学生のあふれている駅前で、歩いてくるあっくんをわたしは目ざとくみつけて名前を叫ぶ。とくに表情を変えぬまま歩いてきたあっくんは制服だった。おやまあ、とわたしはどんぐりまなこでそんな彼をみつめる。
 吾妻秋日。わたしよりもひとつ年上のおにいさん。家族構成はおとうさまとおかあさま。すきなものは秋刀魚と読書、きらいなものはグリーンピースと安っぽい昼ドラ。わたしの言動にいちいち突っ込みぐーぱんちをかましてくるのーくんとは対照的に、わたしの一言一言をスルーし時に下等生物でもみるかのような眼差しでわたしを見下ろし、口からバリエーション豊富な罵詈雑言を投下してくる若干ナルシ入った高校二年生である。
 てくてくこちらに歩み寄ってくるあっくんの横にたったかたーと小走りでならび、その顔をみあげる。ばちこんと目があう。わたしがにっとわらってみせれば、あっくんはふいと顔をそらした。つれないひとである。知ってたけれども。
「ところであっくんきょうどこにかいものしにいくのー? 藤浪? 金雀枝?」
「熊葛」
「くまつづらー」
 じゃあここから五駅だね! とわらうと、四駅だろと鼻で笑われた。たいしてちがわないじゃあないか。
「じゃあしゅっぱあつ!」
 勢いよく右手を振りあげれば、あっくんはちいさく肩をすくめた。その顔がやたらと大人びていたので気に食わなくて、わたしは道端の小石でも蹴るようにあっくんのすねのあたりを蹴飛ばした。華麗によけられたけども。

☆★☆

 わたしの住む延寿町から電車で五駅……じゃなかった四駅いくと、そこそこ大きな雑貨屋本屋も兼ね備えたショッピングモールがありこぢんまりした映画館もあり、もちろんゲーセンもある……準都会とでもいえばいいのだろうか、そんな熊葛駅はある。
 わたしたち延寿高校の生徒が放課後や休みの日に足を運ぶのは、主にここか逆方向の金雀枝、藤浪くらいで、わたしとあっくんは電車通学ではなく徒歩通学(あとたまに自転車)なのであまり行かないのだけれど、たまに遊びには行くのだ。電車賃そこまで高くないし。ちなみにここまで馬鹿丁寧に説明しましたが覚える必要はまったくありません! ここテストにでません!
「あっくんあっくんなに買うの?」
「文房具……シャー芯とルーズリーフと、あとバインダー」
「ほへえ」
 ショッピングモールの自動ドアをくぐると、ひやりと冷却された空気が身にまとわりついた。夏独自の感覚に、ひゅうと口笛を吹く。お気に入りのチェック柄のワンピースの裾がひらめいた。
 そのままきょろきょろするわたしの横をすりぬけエスカレーターに両足をのせるあっくんの後ろ姿を追う。やはりここでも、ちらほらと学生の姿がみえる。そのままゆるゆると三階までのぼって、文房具売り場へと歩く。あっくんは基本的に無駄話なぞしない人種なので、自然と黙ったまま歩くことになる。はじめて来たわけでもないのにまわりをせわしなく見回すわたしの口数も減るので、とくに不都合はない。
 あっくんは迷いなく足を進める。ルーズリーフの棚のまえに立つあっくんを横目に、わたしは色とりどりのマスキングテープをながめることにした。わたしの今着ているワンピースに似た赤のチェック、淡いピンクの単色、青と白の水玉模様、黒と白のストライプ。うむむ。持っていない柄が多くてついつい買いたくなる。林檎姉とふたりで買い集めてはいるものの、やっぱり欲しい柄は次から次へとでてくるものだ。
 むむむとうなっていると、「おい」と声をかけられたので顔を上げた。いつのまにやらお目当てのものをすべてげっとしたらしい。
「あーもういくー?」
 上半身をそらしてたずねると、うなずきかけたあっくんがふとわたしの目の前にあるいくつものマスキングテープに目を留めた。それきり動かなくなったので、わたしはかくりと首をかしげ、「なに?」と訊ねれば、「……どれか欲しいのあんのか」と逆にたずねられる。よくわからないまま実は気に入っていた淡いピンクのやつを指させば、あっくんの指がそれをすくいとった。
「?」
「今日のぶんの礼」
「……うおう!」
 そう、こういうやつである。あっくんはたまにやさしい。たまーに、ほんとにたまーに、わたしをあまやかすのだ。さすが年上。わたしはあっくんのこういうとこがすきだ。
 びっくりするわたしをみて、あっくんはにやりとわらう。もしかしたら今日初の笑顔かもしれない。たぶんわたしが犬だったらいまごろうしろに生えたしっぽをぱたぱたさせていたことだろう。わたしはどうだろう、自分的にはねこっぽいと思うのだけれど。犬なのかな。
 あっくんにきいてみると、あっくんはしばし変な顔をしたあとに「……アルマジロ」と言った。意味がわからん。

☆★☆

「はあ、む」
 あっくんに買ってもらったピンクのマステはかばんのなかへ。あっくんが文房具をひととおり買い終えたあと、ゲーセンにふらりと立ち寄ってガンゲーやら音ゲーやら散々気の済むまでプレイしたのち、わたしたちはショッピングモールを出てそのへんで腹ごしらえをしていた。
 わたしの手がにぎりしめているのは、黄金色に焼き上げられたクレープ生地である。中身はたっぷりの生クリームとバナナ、それからチョコチップ。ひとくちかじるともっちりしっとりした生地がやぶれて、あまったるい生クリームがこぼれてくる。それを落とさぬよう気をつけながら、はぐはぐと口を動かしてごくんと嚥下。高カロリーであろうこういうものをたべるとき、ああわたしってしあわせだなあ! と思うわけである。たぶんいまのわたしのまわりにはしあわせオーラがただよっていることだろう。
 そんなわたしのとなりでは、あっくんがカフェオレを啜っている。このひともこんな顔をしていながら、わりとあまいものがすきなのだ。本人は認めようとしないけれども。おいおいきみまでつんでれくんなのか! のーくんだけじゃなかったのか!
「ふわああ……! おいひい」
「こぼすなよ、白雪」
「うはあーい」
 押しこむようにして、クレープを口へとはこぶ。それでもクレープはなかなかなくならない。どうやらこのお店の売りはクレープの中身というよりは、おおきなサイズとボリュームであるらしい。その証拠に、わたしの手のなかにはまだ半分以上のクレープが残っている。
 ビルの壁にもたれかかり、手持ちぶたさにみえるあっくんをみあげる。紫がかったその髪は、いつのまにやら襟足がのびてきている。そういえばわたしの髪もけっこうのびてきたなあと毛先をなでたとき、あのロングヘアを思い出した。
「……あ」
「?」
「ねえねえあっくん」
「何」
「そういえばね、話しかけられたよ」
「……? 誰に」
「えっとね……なんだっけ……なまえわすれちゃったなあ……ええと、ハルなんとかさん」
「……もしかして、春田か?」
「ああそうそれそれ」
 すっきり! という顔をするわたしに反し、あっくんは瞬時に苦い顔になった。口にしていたカフェオレはあまかったはずなのに、その表情は苦々しく、嫌そうな顔だった。けれどわたしがその顔をみたのは一瞬のことで、まばたき一度のあいだにあっくんの表情は切り替わり、もとの興味があるんだかないんだかよくわからない顔になった。
「あいつが、おまえに?」
「うんー。なんかねえ、おともだちにならないかって言われたの」
「……」
「まあ、断ったんだけどね」
「……断ったのか?」
「そうだよ」
 ひとくち、またクレープにかぶりつく。あまい。人工的なあまさが舌を焼く。ぐちゃりと半分溶けたチョコチップを噛み潰し、唇を舐める。生クリームの味がした。
「あのひと、うそつきの匂いがする」
 言うと、あっくんは黙った。その手元にある、噛み跡のついたストローがさびしげにゆらゆらしている。わたしはその顔をじっとみた。なぜだかわからないけれど、その睫毛がふるえていた。それがわたしの吐いた台詞によるものなのか、それとも件の『ハルタサン』がわたしに会いにきたその事実によるものなのか、それはわからない。
 ただひとつだけはっきりしているのは、そんなあっくんをみたわたしが形容しがたい心境に陥ったということだった。なんといえばいいのだろう、胃のふちあたりがぎゅっとちぢまって、足元がふらりとゆらぐ感覚。そしてわたしはこの感覚を───知って、いる。
「ねえあっくん」
 だからそのことばが口をついたのも、わたしにとっては自然なことだった。
「わたし、あのひとのことさ、」
 そのとき、べしゃり、と音がした。わたしの手元から落ちたクレープの生クリームが、アスファルトに叩きつけられる音だった。真っ黒いアスファルトに真っ白なクリームがひろがっていく。眼球が乾く。目の奥がじわりじわりと黒に支配されていく。自らの指先でさえ、硬直したようにふるえる。
「───『きらい』だな」
 よくわからない浮遊感があった。そうしてわたしは思い出す。地面に滲んでいく生クリームが、かの日のバニラアイスとかさなっていく。わたしは過去にも、こうしてあっくんのとなりで浮遊感におそわれた。それはたぶん、わたしの両親が車に跳ね飛ばされ、黒猫にすり寄られる骸と化したあの日よりもあとのこと。あの日は、どうしてあんなにからっぽな気持ちになっていたのだったか。もう、思い出せない。
「白雪、」
 ふいにあっくんがわたしの名前を呼んだ。落ちた生クリームをぼんやりとながめていたわたしは、ゆらりと顔を上げる。そうして、ゆっくり微笑する。それが自然だと、だれかが耳元でささやいた。ひそやかにこごえるような声で。持ち上げた口の端は、これっぽっちもゆるがない。
「なあに、あっくん」
 あっくんの目のなかにわたしがうつっている。あっくんはながいあいだ答えなかったけれど、やがて「……なんでも、ない」と口にして、ふいと視線をはずした。