生クリームを添えること

 
 
  
「えっと……鞠桐、さん?」

 澄んだ声がわたしのなまえを呼んだのは、ある日の放課後のことだった。

 迷継ちゃんとの屋上でのカミングアウトからずいぶんな時間がたっていた。定期テストも通常どおりぎりぎりで倒し(結果は聞かないでほしいな!)、もう夏休みは目の前だ。
 るんるん鼻歌まで歌えそうな今日は、金曜日である。つまりは週末だ。今日は生物部であるのーくんは部活らしく、晴れ晴れ帰宅部であるわたしは足早に帰路につこうとしていた。なぜなら今日はめずらしく林檎姉のお仕事がはやく終わるそうで、外食する話になっていたからだ。外食ってなにかな。ファミレス? 回転寿司? 
 そんなふうに鼻歌をうたいながら昇降口を出ようとしていたわたしを呼び止めたのが、冒頭の声である。きょろっとそのままの姿勢で視線をやる。聞いたことのない声だった。
「はじめまして。わたし、春田貴和子といいます」
 そこに立っていたのは、肩を超える長さの髪を垂らし、自然に長い睫毛を伏せがちにした上級生だった。うつくしい笑みが、唇をいろどっている。
 わたしはしばらく誰だろうと記憶をさぐっていたが、やがて、気づいた。彼女が一昨日の朝、あっくんのとなりにたっていたおんなのこだということに。
 踏み出しかけていた足をゆっくりと戻す。彼女の目はわたしをみていた。わたしはそれをうけとめて、黙っていた。なぜか彼女からは金木犀のかおりがして、けれど、わたしの鼻腔に届くのは、やはりうそつきの匂いだけだった。

☆★☆

「吾妻くんとは、同じクラスなの」
 笑顔で語る『ハルタサン』はなぜかわたしのとなりを歩いていた。おなじ方向、らしい。というか、彼女は駅を目指しているらしい。わたしはその手前に家がある地元民なので、徒歩通学なのだけど。
 わたしはろくに相槌もうたず歩いている。釈然としない。どうして、このひとはわたしのとなりにいるのだろうか。どうして、いまわたしのとなりにいるのは、このひとなのか。
「それでいまはいちおうお付き合いさせてもらっているのだけど……ああ、私からお願いしたの。つきあってほしいって」
「……ふうん」
 正直いってそういうのに興味はないのだった。あっくんがだれとお付き合いしようがわたしの世界に影響はない(はずだった)し、あっくん自身、自分からそのはなしを振ることなんてなかった。だからわたしの興味はそんなところにはないというのに。
 ちろりと彼女の横顔をうかがってみるけれど、わたしの目にはその顔がうまくうつってくれない。ぼんやりと霞んだように、ただ色だけが見える。ときどき思い出したかのように鮮明になるけれど、それも少しのあいだだけ。すぐに水を垂らしたように輪郭をうしなっていく。
 ひさしぶりの感覚だった。瞬きの合間によぎるモノクロの記憶は、ふたたび目を閉じることによって消え去っていく。
「そう……それで、彼の幼なじみだっていうあなたともおともだちになりたいなあって、思ったの。鞠桐さん」
「おともだち」
「そう。おともだち」
 恥ずかしそうにわらうその表情は完璧だ。けれど、わたしはそんなものに興味ないこと、このひとはわかっているのだろうか。わたしはゆるりと首をかしげた。理解できない。わからないことは、苦手だ。
「だめかしら?」
 たぶんこの笑顔に落っこちるひとは多いのだろう。いままでも、これからも。でもそこにわたしと、それからあっくんは含まれない。なにを言われたわけでもないけど、あっくんはそういう理由でおんなのことお付き合いを繰り返しているわけでは───ないのだ。それは、わたしでさえ知っていた。じゃあどういう理由なのかなんて、それはわからないし、知らないままでかまわない些事だ。
 わたしは足を止めた。怪訝そうに『ハルタサン』は振り返る。視界のなかの彼女の輪郭がはっきりと濃くなる。その眼球が、みえた。そのなかにはわたしが鏡のようにうつりこんでいる。わたしは表情をかえなかった。ああそういえば髪伸びたな、いつ切ろう、なんて。
「……ねえ、」
「なあに?」
 だからわたしは、こう言った。

「残念だけどわたしはうそつきとおともだちになれるほどやさしくないんだ」

☆★☆

「し・み・ず・ちゃあああああああああん!」
 さあて今週もやってまいりましたわたしの楽園である月曜日! 帰宅部の悲しき運命として土日学校にいく理由がなかなかこじつけられぬ身としては、月曜日はいとしの彼に久々に会える聖なる日なのだ!
 教室に今日も今日とて元気に一番乗りし、どきどきどきどき早鐘を打つしんぞうをおさえて思いっきり彼のなまえを叫ぶ。はっもしかしてこれが恋か! 恋なのか! 愛なのか! らぶなのか!
「しみずちゃんらあああああぶ!」
「やめてください大声で叫ばないでください!」
 本気で懇願する声がして、わたしはなまえをよばれた飼い犬のようにぴこーんとアホ毛を逆立てて思いっきり振りむく。大きな音をたてて扉を開け放った彼は、真っ赤になった顔のままぜいぜいと肩で息をしていた。やだ今日もすーぱーかわいい!
「おはようぐっどもーにんぐだね清水ちゃん! 朝から声が聞けてうれしいよ!」
「毎朝きいてるじゃありませんか……!」
 叫びっぱなしのせいかめがねがずりおちて、きらきらの双眸が垣間みえている。本人は嫌がっているらしい天然の茶髪は今日もかわいらしい。ふわふわ頭は至高だと思うの。わたしはばびゅんと彼にアタック(物理)して、興奮にはあはあしながら彼の手をぎゅうとにぎりしめる。あっ折れないように加減はしています!
「えへへへへ清水ちゃんかーわーいーいー!」
「うわあん離れてくださいこの変質者!」
「変質者じゃないよう白雪ちゃんだよえへへへへ」
「ひいいいたすけてください宮浜!」
「ほいきた」
 わたしが清水ちゃんにすりすりしていると、ふいにそのうしろからのびた長い手がわたしの襟首をひょいっとつかんで清水ちゃんから引っペがした。わたしはじたばたしてみるも、そんなんじゃ彼から逃れないのは知っていたので早々にあきらめて手の主をみあげる。ぱちりとその紺色の瞳と目が合う。
「鞠桐は朝から元気だなあ」
「それは褒め言葉だね? ありがとう宮浜ちゃん!」
 宮浜ちゃんとは清水ちゃんのナイトであるよくできたおとこのこである。わたしと清水ちゃんのクラスメイトだ。所属しているのは清水ちゃんとおんなじにテニス部。そんでもって背が高い。どこかのだれかさんとならべたら小学生とおとなにみえる程度には、背がたかいったあい!?
「なんか腹が立つことを言われたような気がした」
「げっのーくん」
 いつのまにやらとなりにのーくんがたっていて、かなりいいタイミングでわたしの背中を蹴っ飛ばしたようだった。いたのにぜんぜん気づかなかった。ああなるほど、まえに背の高い宮浜ちゃんがいたからみえなかげふんげふん。
 思いっきり咳払いして、へらりとわらってみせる。恨みがましい目つきをしていたのーくんはやがてふんっとそっぽをむいて、宮浜ちゃんに「こいつ絞めていいぞ」との指令を出した。ってちょっとまって!
「さすがに宮浜ちゃんの殺傷力レベマヘッドロックを受け流す自信はないよう!」
「うん? 俺のヘッドロックを受けたいなんてやっぱ鞠桐は勇気あんな!」
「ちがうちがうちがうちがう!」
 宮浜ちゃんの唯一の欠点はわたしといい勝負ができそうな成績から一目瞭然なように、あたまがかるいところにある。わたしよりもひとの話を聞かないのだ。末期だ!
 わたしはするんと宮浜ちゃんの腕から抜け出して、清水ちゃんのうしろにまわってふしゃあと威嚇した。「鞠桐は猫みたいだなあ」と笑顔でいう宮浜ちゃんにすこしだけ恐怖。意外な伏兵はここにいたのか……!
「ていうかなんでのーくんこんなとこにいるの! 教室向こうじゃーん!」
「宮浜に貸した教科書返してもらいに来たんだよバーカ」
「ばか!?」
「……ってそんな馬鹿やってる場合じゃねえわ。おい宮浜、はやく教科書かえせ。こっちは一限なんだよ」
 険悪な眼差しから一転、のーくんはそう声を上げると宮浜ちゃんの背を押す。放置された! とこれまでにない事態に戦慄するわたしをよそに、「あっそうだった!」とのーくんに押されるまま歩いていく宮浜ちゃんを見送り、わたしはあたまのうえに疑問符をうかべた。
「なになに? みんななにをそんなに焦ってんの?」
「そ、そういえば鞠桐はやってきました? 今日の生物のテスト勉強。ぜんぶ教科書からでるみたいですけど、赤点とったら夏休み二週間丸々補修だって」
「えっなにそれきいてない!」
 うそだあ! と清水ちゃんの肩つかんでがくがく揺さぶるも、早々に目を回して舌を噛んだ清水ちゃんは人生なんとかなるさ理論をかかげるわたしとは大違いでどうやらきちんと勉強してきているようだったので、「清水ちゃんの裏切り者お!」と叫んでぽいっとそのへんに投げた。「ぎゃああ」と悲鳴をあげて壁にぺたりとはりついた清水ちゃんを剥がすのはもちろん宮浜ちゃんのお仕事である。おつかれさまです!
 わたしは自分の席についてたくさんおきっぱなしにされた教科書のなかからぴかぴか新品同然の生物のやつを引っこ抜いて、真面目に勉強に取り組むことにした。うしろからへろへろになった清水ちゃんのあわれな声が聞こえた気がしたけど聞こえなかったことにした。ちなみにテストの結果はぎりぎりの勝利だった。

☆★☆

 携帯のバイブ音で目が覚めた。
「……ん」
 寝起き特有のぼんやりした脳みそは活動をはじめるのを嫌がって、わたしはうすくひらいた目でもってクリーム色の天井をみあげた。
 場所は自室。テストを無事にノックアウトさせたわたしは帰宅部ゆえに速攻で帰宅しその場の眠気にまかせて寝たのであった。ぎしりとベットが軋む音がした。ぼうっと天井をみあげていると、耳鳴りがするような気がした。たぶん幻聴だ。
 そういえば、貝殻を耳に当てると聞こえる打ち寄せる波のような音はにんげんの血がめぐる音なのだと、ずっと昔にあっくんに教えてもらった。そのときわたしはかなりおどろいて、手にしていたアイスバーを落としてしまったのだっけ。まあ当たりだったからよかったけれど。ええと……あれは、いつのことだったっけ。
 ごろりと寝返りをうつ。視界の端にうつったあかいろに少しのあいだだけ動きを止めて、ああそういえばそうだった、と息を吐く。無意識のうちに爪を立ててしまうのは悪い癖だった。だからすぐに手首があかく染まる。そうしないようにいつもリストバンドを林檎姉に嵌められているのだけど、今日はどうやら寝る前にはずしていたらしい。あついもんね。
 そっと指の腹で手首をなぞる。窓から射し込むひかりはオレンジ色だ。ちかちかとまたたく過去の幻影をのぞきこみ、とくに意味もなく喉を鳴らしてみる。……いまのわたしには決定的にたりないなにかを、あのころのわたしはもっていたのだろうか。だとすればそれはすごく、どうしようもなく、あわれなこと、なのじゃあ───ないか───
「……あれ」
 とりとめもなく流れていく思考をそのままにしていると、ふいに携帯の液晶にうかんだなまえが目に飛び込んだ。あっくんだった。ゆるりと身を起こして携帯のロックをはずして、メッセージを確認。簡素な文章を要約すると、「今週の水曜の放課後暇なら買い物につきあえ」ということだった。わたしに暇かどうかときくなんて、それはグモンなのにね! 全国の帰宅部みんなが塾とかクラブとかで忙しいと思うな! 暇人代表☆鞠桐白雪ちゃんここに見参!
「自分でいってて虚しくなる……わけがなかった!」
 わたしを誰と心得る!
 だれもいない部屋でひとり言い訳のように叫んで、ベットの上で華麗に立ち上がりしゅばんと返信。首吊ってるうさぎちゃんがオーケーマークをつくってるスタンプをぽちりと送信し、うむうむとひとりうなずく。完璧。ていうかこれはでーとですか? でーとですかね? いやっほおいあっくんとでーとだあ! テンションが急激に上昇!
 わたしはベッドを軋ませいちどジャンプして、それからなにもなかったように爛れた手首をリストバンドで覆った。そうして、自覚したはらぺこを満たすためにリビングへ走った。