24世紀少女と19世紀少年

 
 
  
 からだがひどくだるかった。

 指の先まで皮の下に鉛を詰め込んだかのようにからだが重たく、いまのわたしはただ気力だけで身を引き摺っているといってもたぶん過言ではない。気が重い。プールからあがったときみたいに、からだがずしんと重い。
 足元からは濡れたものを引き摺るような音がしている。もう誰もいない錆びついた廃墟のビルで、わたしは重いからだに目を細めながら歩いていた。ふとからだを見下ろせば、そこにべったりとはりついた血の跡が網膜を焼く。
 わたしの血ではない。返り血だった。ひとの血。他人の血。わたしのせいで、流れた血だ。
「……あっくん、怒ってるかなあ」
 ひとりつぶやくと、その声は寒々しい螺旋階段を跳ね返り孤独に響いた。焦げ茶の目を見開いた彼の顔がまぶたのうらに浮かんでは消えた。
 とん、とん、とん、とん、と足で階段を叩きながらのぼる。なるべくリズミカルに。行進のように、気分を高揚させるために。
 ぐるぐるぐるり、不安定な世界がまわる。だらりとさげた左手がやけに熱くて、けれどときどきひやりとつめたくなる。わたしは手首を舐めた。鉄の味がした。
 耳の奥にはまだあのひとのヒステリックな叫び声が残っているような気がした。過去のことのはずなのに。わたしの脳があのひとの記憶に侵されていることに嫌気がさして、それをかきけすようにわざと音を立てて階段を踏みつけた。けれど気休めにもならなくて、首を振る。
 わたしがどうしてこうやって歩いているのか、それすら忘れそうになる。忘れてはならない。わたしはこのビルの屋上にいかなくちゃいけない。その目的は考えないでもわかる。わかりきったことだ。
 視界の端を蜂蜜色の髪が横切る。それがやけに鬱陶しくて、手にしていた包丁をにぎりしめ、ぶつん、とサイドテイルを根元から切り落とした。はらはらと切り落とされた髪が舞い落ちる。わたしはひとつだけうなずいて、髪を結んでいた青のリボンだけを右手首にひっかけて、また歩き出した。

 精神を摩耗させながらやってきた屋上は、やはり室内と同じく夕日色に満ちていた。おんなじ色にひかる目をしたあのこのことを、思い出す。
 あのこはわたしを止めなかった。わたしの告げたことばにやけにたのしそうなあの顔のままで、わたしにああそうだねきみはそうするのだろうね、とおちついた声音でつぶやいて、目を閉じた彼女。
 あのこはわたしに未来の選択肢をおしえてくれた。わたしはずっとずっと愚かでどうしようもなくて、自分の世界にしがみついて手放したくなくて、でもどうすればいいのかわからなくて堂々巡りのなかにいた。わたしを救ったのはあのこだった。あのこがわたしに第三の道を示してくれたから、わたしはいまここにいる。
(……ありがとう)
 きっといまはどこかとおいところで、耳にさしたイヤホンから流れ出る愛の歌に耳を傾けているであろう彼女にこころのなかで感謝をすると、同時にうしろのほうからがたんと音が聞こえた。
 振り向く。屋上の扉があいていた。錆びついたドアがひらかれて、つめたいドアノブをにぎりしめて青ざめた顔でそこにいるのは、
「やっほう、のーくん」
 のーくんがそこに立っていた。
 目を見開いて、信じられないと言った顔で、そこに立っていた。その手から離れたドアが枠に吸い込まれて、がちゃんと無骨な音を立てた。汗がその顎を伝ってアスファルトを穿つ。黄金色の目はこの黄昏の中でもきらきらと宝石みたいにひかっていた。
 わたしはその目がすきだった。その目をながめるのが、すきだった。そしてこれからもずうっと、たぶん夢にまでみるのだろう。
「なに……してんだよ、白雪……!?」
「なにって……かんたんなことばじゃ言い表せないことだね、きっと」
 わたしは腕をひろげた。まるでなにかを抱きとめるみたいに、おおきく。
 右手には青のリボンと血に染まった包丁を、左手にはぱっくりひらいた手首の傷と自らの血をにぎりしめて、にっこりとわらう。彼がわたしの真意にきづくことのないように。彼が彼のままでいられるように。わたしみたいに、ならないように。
「は……? おい、巫山戯んな、白雪!」
「巫山戯てなんてないよ、のーくん。ねえ、あったんでしょう? 下にいるあっくんと」
「っ、」
 とおくからサイレンの音がしている。ということは、のーくんは階下のあっくんをみつけたんだろう。そして、たやすくわかったはずだ。それを為したのがわたしだということくらい。だってわたしとのーくんは、もうずっとずっと長いつきあいなんだから。
 のーくんは息を呑んだ。ひゅう、と空気が喉にかかる音がした。ああどうしてだろう、こころがあつい。
 あはは、とわたしはまたわらった。包丁を放り投げて、どくどくあふれる血をこぼれるままにして、フェンスに指をかける。とおくでからんからんと音が鳴って、しばらくして消えた。
「ねえのーくん。わたしってなんでいきてるんだろうねえ」
「しらゆき、」
「だってほんとうはわたしはあそこで死んでたはずなのに」
「おい、血、が」
「それにこの世界を死なすのもわたしなのに」
「秋日さんになにしたんだよ、なんでこんなこと、もうやめろ、」
「だからわかっちゃったんだよ、わたしがなにをするべきか」
「何言って、」

「わたしが死ねばいいじゃない?」

 目を細めて、首をかしげて、わたしは凄惨に笑んでみせた。
 そうして驚愕の色に顔を染めたのーくんの顔を網膜に焼き付けて、ぶかぶかのローファーで地を蹴って、赤色と橙に埋まる世界に目を閉じて、

 わたしは、落ちて、そして、

 ぐしゃり。