吐いた雑音など過去のもの
にこにこと笑う彼女が、何度も何度も、包丁を床に突き刺す。とても滑稽だった。もちろん床は血など出さずに、ただただ傷つけられてゆくだけ。なにしてんの、と言うと、なにが?ときょとんと答える。なんと彼女にとってその行為は行為にさえ値しない、呼吸をするようなものだったらしく。それに私はなるほどと思う。
「やーはーぎーはあー」
彼女が言った。
「なにが不満なのー?」
例えばその質問自体。あとは、腕についている針、につながる細いホース、を通る液体。自分の弱い器官。
そしてここ、医務室。病弱な人たちしか入らないこのエリアが、私はいちばん嫌い。勝手に世界を壊されて、連れてかれて、連れてかれたのにも関わらす、弱いからと放り込まれる医務室と、それを嘲笑う奴ら、事務仕事という雑用ばかり負わせられる医務室育ち、ああ、あと、医務室育ちというワード。全てが私は不満で、だから、彼女によく不機嫌と言われるのも当たり前なのだ。
「蓮月」
「んーん?」
顔を上げずに答えた蓮月は、包丁で器用に床に絵を描いていた。
「あんたはさ、幸せなわけ?ここの生活」
「んーん、ん、わたしはねぇ、ハナハナと矢萩がいるから、それでいいや。」
「なにそれ、あんたの幸せてそれ?……ちっぽけなもんね」
私は自覚はしているが、思ったことはほぼはっきり言うタイプだ。それが、相手にどう影響を与えるかなど、考える暇もなく私は口から言葉を吐く。しかし、蓮月はその言葉をとくに気にせず、包丁で絵を描き続けていた。下手な猫だった。
「あのねー、あのね、矢萩、私ね、シグナルの世界しか知らないんだよ」
「……はぁ?」
「私はね、なんか、あかちゃんのときに拾われたんだってー、さ」
初めて聞いた、というか、そんなことがあるのか、と思った。
私がここにきたのは五歳の時だ。まだ、自分が育った今は亡き世界を、覚えている。ほぼ水で形成された世界に、ぽつんと浮いていた島で暮らしていた記憶。両親、とかも。それら全て、彼女は自覚する前にここへ来たのか。
「だから、どう探したって、私の幸せはここしかないんだ」
「へぇ、……悲しいわけ?それ」
「とくには。ハナハナいるし、あと、矢萩も」
ついでのような言い方である。まぁ、この子と奴は来世まで続くのではないかと思うほど強いつながりであるので、こういうのは慣れたものだ。ところで言って思ったけど私達に来世はあるのだろうかね、どうでもいいけど。
「あのね、言いたいことはそうじゃなくて、」
「なによ、はっきり言いなさいよ。あんた勿体振るの好きね」
てへへ、と彼女は笑う。
「矢萩は、元いた世界で、ちゃんと幸せを感じてたんだね、て」
なにか言いかけて、けれど口からはなにも発されなかった。なぜか、ばくばくと心臓が痛んだ。幸せ。もういまはないあの世界で、そうだ、私は確かに幸せだった。家族と過ごして、野原を駆け回って、どうでもいいことで友と笑いあう、あの日々が。
「その幸せ以上の幸せがないと、きっと、ここが好きになれないんだね、たぶん」
「……、……嫌いなのは、ここだけだよ。シグナルが嫌いなわけでないし……、私はそんな、欲はない」
と、思う。
「ねぇねぇ矢萩、」
蓮月は包丁を手の中でくるくると回す遊びを始めていた。回しながら、なんだかどこへいくかわからない話をするのだから、彼女は器用である。
「ねぇ、ねぇ、矢萩、矢萩は
自分を、ちゃんと好きになるべきだと思うよ」
「………………はぁ?」
何を言う。私は、私の細い腕に繋がられた細い線と、液をみた。こんなものがなければダメになる身体、誰が好きになれる?
「そしたらきっと、幸せだ」
彼女の手の中から、包丁がするりと落ちてゆく。とん、と床に傷をつけて落ちた。
「知ってる?矢萩、世界はね、無限の可能性を持つんだってさ」
蓮月は、太陽のような、笑みを見せた。
彼女といる時間が少し減って、何年かが経った。
「やーはーぎぃー」
「蓮月、あんたいまどこから湧いてきたの?」
「窓から」
「碧子、こいつ放りだすわよ」
「い、いいの……?矢萩ちゃん…」
「碧子ちゃんはろー」
「ひいう!」
「そろそろ慣れてほしいんだけどなぁ」
「無理でしょ、あんただもん」
「やーはーぎぃーはぁー」
「スルーね、知ってたわ」
「お、おおちゃ入れてきます……!」
「碧子逃げたわ、あんたが出ていくべきなのに」
「自分のことが好きー?」
「はぁ?話きいてる?てかなにその質問」
「好きに決まってるでしょう、私だもの」
私はその言葉が嬉しくて、ニコニコと笑った。彼女は、少し不満そうに、軽く私を小突いた。