差し伸ばされた白い手を取ったとき。
どうしようもなく嬉しくて。
どうしようもなく悲しかったんだ。


水面の下で月に乞え 8


「ライラ、」
聞こえていました。聞こえていたというのに、彼はもう一度その名前を呼びました。それは〝あの世界〟から持ってきた唯一のもの、だったはずのもの。きゅ、と唇を噛みます。彼を見ることができない。見てしまったら、わたしは過去を見ることになる。捨てた過去を、いらないとした過去を。
もう掴むことができない過去を。
「…え…」
いま、
いま、わたしはなにを、
考えた?
「ライラ、」
「呼ぶな!」
思わず、叫びます。だって、何度も何度も。彼がわたしの名前を呼ぶたびに、わたしは過去を思い出していきます。それは決して許されることではないのです。
ゆっくりと息を吐き、彼の方へ振り向きます。目が合うと、彼はぐにゃりと顔を歪ませます。…なんで。
なんで、そんな苦しそうな顔をするの。
「……どうして、シグナルに…」
「……あなたに関係ある?」
「あ…あるに決まってるだろ!なんでシグナルにいるんだよ!?そんな…世界を〝存在する意味がない〟とかいうふざけた理由で壊す奴らなんかと…!」
…そのような言葉を、わたしはかつて留哉に投げた気がします。留哉はそのとき、わたしになんて返したのでしょう。いまになって言えることは1つ。決して、それはふざけた理由なんかではないことです。百をも超える世界が存在する空間が、果たしていつまで保つのか。存在理由がない世界があるせいで、存在理由がある世界が危うくなる。そんなことがあってはならないのです。
「…世界のため」
「…は、」
わたしは、彼の目を見つめます。動揺
、怒り、悲しさ。それらが、彼の目にあるように思えました。
「シグナルは、いつだって世界のために動く。ただの世界壊しと同じにしないで。」
「…!」
彼の目が見開かれて、ぎゅ、と唇を噛むのが分かります。
「なんで…んなの、シグナルの言い分じゃねぇか…。ライラ…、お前、シグナルを選んだのか…!?あいつらがいる世界を捨ててまで!!シグナルを選んだのか!!?」
あいつら。
……あいつら…?

『ライラー!みんなを起こして!』
『おねーちゃんお腹すいたぁ』
『見て見て、わたし頑張ったよー』
『きょうは寒いから、みんなでくっついて寝ようよ』
『シスターが呼んでたよ』
『またあいつ喧嘩でやりすぎたんだよ!ライラからもなんか言ってよ!』
『ライラねーちゃんと**にーちゃんは仲良しだね』

『ライラねーちゃん、**がどこにもいないよ……』

『お墓が増えるの見るのは、やっぱり辛いや』

『逃げて!!』

ゆらゆら揺れる火の中で、声が掻き消されて、最後に残ったのはー

『お前だけだ』


はっ、と笑います。彼と再会を果たして、はじめてわたしは笑った気がします。彼の目はわたしを捉え続け、離しません。色々な感情が、彼の中を巡っていることでしょう。わたしは、
「あの世界はもうないよ」
その感情を全て剥ぎ落としたい。
「…は、?」
「あの世界は、シグナルがいらないと判断して、消したの。そしてわたしが生き残った。適合者として、シグナルになった。君がいうあの子たちは、世界とともに消え去ったよ。」
ゆっくりと、一言一言。彼に理解させるために、言葉を吐いていきます。シグナルであろうと決めた日から、たった一回を除き決してしなかったあの世界の話。留哉以外とは話さなかったあの世界の話題。
「なん、で……そんな……、…だったら!尚更!!」
「裏切ったって?笑わせないでよ、」
本当に可笑しな話です。わたしはあの世界とシグナルを天秤になどかけていません。かける以前に、わたしに残された選択肢はシグナルだけ。そして、すでになくなったものとシグナルを天秤にかけることもまた、無理な話なのです。ただ、古い方を後片付けしただけ。けれど、彼は違います。
「あの世界を捨てたのは、君でしょ?」
「………!!」
彼は、なにかを言おうとした口を開けたまま、固まります。パクパクと口を動かして、しかしなにも言葉を発せず。彼は、ずっとわたしから外さなかった視線を、すっと外したのです。下を向いて、手を握りしめ、震えています。
何時間も、何日も。みんなで彼を探しました。他の子と違い、彼はそう簡単に人に攫われたりやられたりする人ではないと、皆分かっていました。それでも、どこにもいなかったのです。だからお墓をたてたのです。泣きながら、泣くのを耐えながら。そういえば、君さえもいなくなるの、と誰かが呟いたのを聞いた気がします。
「捨てたのは君だよ。」

燃え盛る教会の前で膝をつき、どこからか聞こえていたはずの泣き声が止んだことに気づき、ゆっくりと首を回し、不器用に建てられた小さな石墓を見て。
息を吐き。
あそこに埋まってる人たちのほうが、幸せだったのかもねなんて思って。

『生きたいなら、連れてく』

差し伸ばされた冷たい手を取ったとき。
目の前の男を睨みながらも。
空っぽの心が、どうしようもなく重くって。
わたしはただ、深く息を吐きました。