どこまでも透明でどこまでも遠い

(エメラルド・コンプレックス 番外編)


「ようこそ、赤紙くん。私たちは貴方を歓迎するわ」

 初対面でそんなことをのたまった教師に、唾でも吐きたい心地になった。泡沫と名乗った女性は愛想笑いのひとつも浮かべることなく、それまで吸っていた煙草を携帯灰皿に落とす。先の歓迎するなどというせりふとは裏腹に、けだるげで面倒そうなようすを隠しもしない。その態度に不信感がむくむくと湧いてくる。
 そんな赤紙には目もくれず、泡沫は携帯灰皿をポケットに仕舞い、後ろを向いて腕をのばした。赤色のネイルが施された爪がゆるやかに空を切って、背後に鎮座する扉を押す。白い扉である。ずいぶんと古びた扉がぎしぎし言いながら奥へと開いて、先に中に入った泡沫はこちらに向かって手招きをした。
 赤紙はしかめっつらで外に立ったまま、ふいと空を見上げた。のっぺりと灰色に覆われた空。その下にそびえる大きな屋敷とその門は、やはり何度見ても古臭い。歩いてきた道の向こうからは潮風の匂いがする。
 なぜ自分はこんなところにいるのか、それを思い出すと、苛立ちやら鬱憤やらをなにかにぶつけてしまいそうになる。赤紙はひとつ舌打ちするとポケットに手を突っ込み、嫌気を隠そうともしない足取りで建物のなかに足を踏み入れた。



 インダスト学院。それがこの場所の名である。この島の隅から隅までこの学院の敷地であり、ここにはたくさんのこどもたちと、こどもたちよりは少ない人数のおとなたちが暮らしている。

「貴方の部屋はここね」

 遠くから幼いこどもの声がする。寮だと説明された建物のなか、昼下がりの陽光が差し込む廊下を歩いた先で、泡沫が指さしたドアの向こうを覗きこむ。すると、部屋の中で机に向かっていた人影がくるりとこちらを振り返った。

「彼はトーマ。貴方と同部屋の子」

 トーマと呼ばれた少年は、大きな瞳で赤紙のことを見上げている。年齢は赤紙よりも二、三歳ほど下だろうか。

「わからないことがあれば彼に聞いて頂戴」

 それじゃあね、と言い残し、泡沫は廊下を歩いて行った。カツ、カツ、カツ……とヒールのたてる足音が遠ざかってゆき、残された赤紙は黙ったまま、ずっと自分のことを見上げている目の前の少年を見下ろしていた。彼は年下が得意とはいえなかった。

「あんた、何やらかしてここに来たの?」
「は?」

 だから、ふいにトーマが投げかけた問いに面食らう。気にせずに少年は椅子から立ち上がり、ぴょんと跳ねて赤紙の正面に立つとにやにやと笑った。

「ここにいるのはたいがいがちっちゃいころに親に捨てられた奴か、しごかれてこいって親に送り込まれた奴だよ。あんたは後者だろ?」
「……うるせえな」

 図星だったが、赤紙はトーマを振り払って部屋に入る。トーマが使っているらしいものとは別にもう一組机とベッドがあったので、そちらに自分の荷物を放り投げた。赤紙の後ろ姿を見ていたトーマは面白そうに笑ったまま、「なあ」とまた声をかける。

「外に出ようよ。学院を案内してやるからさ」
「……」

 お世辞にも機嫌がよいとは言えない赤紙の視線を向けられて、しかしトーマはどこ吹く風といったようすだった。この学院には他人の機嫌など気にもとめない人間しかいないのかもしれない。そう思ったが、今朝から一日中つづいている苛立ちをまぎれさせるにはちょうどいいかもしれないと思いなおし、赤紙はまたひとつ舌打ちをした。



 赤紙がこの学院に来たのは、父親との諍いが原因だった。トーマの言う通りである。赤紙の家は曽祖父の代からつづく商人の家系であるが、赤紙本人はそれを継ぐ気などさらさらなかった。しかし赤紙にきょうだいはおらず、彼以外に家を継ぐ存在はいない。そのことに関して父と言い合いをするのは日常茶飯事であったのだが、つい先月、赤紙が外で派手な暴力沙汰を起こしたことにより、どうやら父親の堪忍袋の緒が切れたらしい。

『学院で性根を叩き直してこい』

 そこで愛想を尽かしたり縁を切ろうとしたりせずに、あくまで赤紙に後を継がせようとするあたりから、父親の持つ頑固さを感じなくもないが──ともあれ。そんな理由で今、赤紙はこのインダスト学院にいるのだった。今朝こちらの尻を蹴り飛ばして無理やり船に乗せた父親と、そのうしろでいつもどおりに微笑んでいた影の薄い母親の姿を思い出すと、また苛々がよみがえってくる。赤紙は意識して彼らの姿を脳裏から消した。
 来てしまったものは仕方がない。むしろ口うるさい父親から物理的に距離を置けたという事実を歓迎したほうがいい気さえする。朝から続く苛立ちも、そろそろどうにかしたいところであった。

「ここは学校っていうより共同生活の場なんだよ」

 横を歩くトーマが言う。ふたりは中庭を歩いている。手入れの行き届いた新緑の芝がどこまでも続き、レンガの敷き詰められた道を走ってくるこどもたちとすれ違う。きゃらきゃらと声をあげながら走っていくこどもたちをなんとなしに見送った。

「幼いやつらはあっちの建物で勉強したりしてるけどね。ほかは自分の役割をきちんと果たしさえすればここにいられるわけ」
「お前はなにしてんだ」
「俺? 俺はちびたちに勉強教えるのがシゴト。好きなんだよ、勉強とか」

 臆面もなしに言い切る彼を意外に思って、赤紙はトーマを見下ろした。赤紙の視線を受け止めて、トーマはにやっと笑う。大きな瞳が月のように細まる。

「そうは見えないって顔じゃん」
「否定はしねえ」

 頭を掻きながら言うと、トーマはけらけら笑った。もしかしたら、過去に似たようなことを言われたことがあるのかもしれない。

「俺はちいさいころからここにいるんだよ。ここで学んで、育って、そしたら同じような誰かさんにも勉強が楽しいって教えてやりたくなっただけ」
「ふうん……」

 彼はあくまで気軽さを保ったままそんなことを言うが、正直なところ、赤紙はトーマに尊敬に近いものを感じていた。自分より年下であろうこの少年は、きっと自分よりずっと視野が広くて、はるか先を見通している。

「そういうあんたはいかにも喧嘩っ早そうな顔してる。大方、ここに放り込まれたのもそういう理由だろ」
「……悪いかよ」

 赤紙は眉間に皺を寄せた。せっかく苛立ちの原因である父親のことを忘却の彼方に追いやったというのに、また思い出してしまった。トーマは愉快そうに赤紙を眺めながら歩いていたが、やがてなにか思いついたようで、

「じゃあそんな赤紙クンに忠告しといてやろうか」
「なんだよ」
「この学院で、喧嘩を売らないほうがいい人間について」
「喧嘩ァ?」

 突拍子もない話題に眉をひそめる。喧嘩とは赤紙にとってとても身近なものであったが、こんな平穏そうな場所でその単語を聞くことになるとは思ってもいなかった。彼の口ぶりからすると、喧嘩をするな、というわけでもないようだし……。
 怪訝そうな赤紙の表情に、トーマは「ああ」とうなずく。

「ここはこどもに対してある程度寛容なんだよ。喧嘩そのものは禁止されてない。ただし弱い者いじめは禁止。一方的なリンチ、カツアゲなんかは処罰の対象だよ。殴り合いをしたいなら、自分と同レベルの奴と正々堂々やるんだな」
「それってなんていうか……放置主義っつうか……」

 どういうこっちゃ、と赤紙が胡乱げな目を向けると、トーマは「そうともいう」ともっともらしくうなずいた。彼のしぐさに、先ほど会った泡沫の姿を連想する。この常にどこ吹く風な姿勢でいるのは、もしかしたらこの島の人間皆の共通点なのかもしれない。

「んで、その前提を踏まえたうえで、喧嘩を売らないほうがいい奴について、だけど。まあこれは大きくわけてふたつだな」

 トーマはぴっと指を立てた。

「まずは教師。教師って言っても俺みたいな教師もどきじゃなくて、おとなたちのこと。教師のなかには元軍人だっていう奴もごろごろいるし、喧嘩なんて売った日には一方的にぼこぼこにされるのがオチ。まあ、ふつうにしてりゃ俺らのことを守ってくれてる保護者だから、わざわざ喧嘩売りに行くのは自殺行為ってな」

 そんなことをふざけた口調で語るトーマ、その横を通り過ぎていく教師と思しき男性がやたら筋骨隆々であることに気づき、赤紙は少しぞっとした。男性教師が歩き去っていくのをそっと見送って、ふと、あることを思いつく。

「あの泡沫って教師は?」
「泡沫先生?」

 この島に来て、初めて出会った学院の人間。彼女もそれなりに肝が据わった女のようだったし、元軍人ですと言われても信じてしまいそうだった。赤紙の問いに、トーマは目をぱちくりとしばたいた。

「あのひとは軍人とかじゃないよ。保健室の先生やってんの。でも絶対怒らせるなよ? 教師のなかでも結構な古株で、怒らせると滅茶苦茶怖いから」
「ああ……」

 それには納得してしまう赤紙だった。他人の気分など知らぬといわんばかりのあのふてぶてしさである、彼女自身の気分を損ねられたらなにをするのか想像もつかない。しかも保健室の先生といったか、万が一怪我をして彼女に世話になる場合、機嫌を損ねていたらたいへんなことになりそうだった。

「で、もうひとつはな。シクル一派だよ」
「シクル?」

 次にトーマが挙げたのはそんな名前だった。一派、という単語に赤紙は首をひねる。

「そ。シクルとその一派」

 トーマはうなずいて、おおげさに腕をひろげてみせた。小柄な彼が大げさな動作をすると、なんだか微笑ましくすら見える。

「この学院でいま一番強いのはそのシクル。あいつはここにやって来て早々に学院の不良ども全員のして、でも大きいツラひとつせずに涼しい顔して毎日過ごしてる」
「……そいつが学院最強ってわけか」
「まあ、そうなるな」

 学院最強、ときいて俄然興味をそそられる赤紙だった。もうこれは、自分が自分であるがゆえに変えられない性質のようなものだ。別段喧嘩が好きなわけではない。それでも結局、最終的にたどりつくのは「気に入らなければ倒せばいい」という暴力的な結論だ。それ自体が間違っているとは思っていない。それが自分の生き方だ。

「いまだこの学院であいつに勝てた奴はいない、ってな。あんたもぼっこぼこにされたくなければシクル一派に喧嘩売るのはやめときな」

 頭の後ろで腕を組み、トーマはそんなことを言う。けれど彼の忠告が意味を成すかはわからなかった。もちろん、赤紙も無暗にそのシクルに喧嘩を売るつもりはない。けれどもしもそいつが自分の障害となるなら、その時はその時だ。赤紙にとって選び取りやすい方法でもって、きっとそいつを排そうとするに決まっていた。
 自分の忠告に返事をしない赤紙を見上げて、トーマは仕方ない、とでも言いたげに苦笑した。そして前方に見えてきた建物を指さし、言う。

「じゃあ次、図書館行ってみっか」



 天井の高い建物だった。手を伸ばしても到底届かないほど遠くにある天井によくよく目を凝らしてみると、なにやら西洋画が描かれているのが見える。精巧なステンドグラスからわずかにこぼれてくる陽の光が、たくさん並んだ本棚をぼんやりと照らしていた。
 図書室の一階、入口付近に赤紙は立っていた。赤紙をここまで連れてきたトーマは、借りたい本があるとかでひとりで二階に行ってしまった。入口からも見える吹き抜けの二階へ視線をやるが、トーマの姿はすでに見えなかった。仕方なく、赤紙も奥へと足を進める。
 本は別に好きでも嫌いでもない。赤紙の日常といえば地元の同年代とちんけな縄張り争いをするくらいで、そこに読書などというものが挟まる余地はなかった。先述の通りべつに喧嘩が好きなわけでもないのだが、この生き方の発端は自分の短気さにあるのだろうとは思っていた。苛立ち。そのスイッチを押されると、自分はスイッチを切るための行動をとるしかなくなる。
 この生き方をやめたいわけではない。自分の周囲でくだらない輩に大きな顔をされるのがどうにも我慢できなくて、だからこの毎日があるだけ。自分を害する奴らを排するための暴力。喧嘩。それに逐一口を出してくる父親もまた、赤紙にとっては苛立ちの原因でしかなかった。

「……」

 目的もなく書架をぶらつく。読みたい本は特になく、トーマが戻ってくるための暇つぶしに過ぎない。それでもこの空間は静かで、赤紙の苛立ちの原因となるものもなく、だから彼はとても久しぶりにおだやかな気分でいた。凪いだ水面のように、こころのうちに静けさが満ちている。それが心地いいかどうかは、知らないけれど。
 ふと、ひとつの本棚の前で立ち止まった。自分の背丈よりもずっと高い棚にざらっと目を走らせて、背表紙の文字をなんとなく脳内で読み上げていく。どうやらこのあたりは写真集のコーナーらしい。厚みのある文庫本を読むなど肩が凝りそうだし、これくらいなら気軽に読めて気がまぎれるかもしれない。そう思って、赤紙は端から手にとってはぱらぱらめくっては戻し、手にとっては戻し、を繰り返す。
 庭園、ジャングル、星空、廃墟、崖、教会。色とりどりの写真たちをなんとなしに眺めつつ、最後のページまでめくり終えた本を閉じ、また棚に戻す。そうして次の本を引き出そうとすると、なにかがつっかえているように動かない。思わず眉根を寄せる。こうなったら力任せに引き抜くしかない、そう思ってぐっと指先に力をこめ、思いきり引っこ抜くと──ばらばらばらっ、と何冊もの本が一緒になって飛び出してきた。

「!」

 あわてて腕をひろげるが、本たちは赤紙の指をすり抜けてばさばさと床に落ちていく。抵抗むなしく床に散らばった本の山。赤紙は舌打ちしてしゃがみ込んだ。ついていない。そう思いながら拾った本を、ラベルとにらめっこしながら書架に戻していく。なんで自分はこんなことをしているのか、そんな疑問が頭をよぎったが、考えないことにした。
 そうしてあらかた床に落ちた本たちを片付け終え、もう一度本棚の並びを確認していると、先ほど力任せに引っこ抜いた本が見当たらないことに気づいた。あわてて足元に視線をやる。すべて拾ったと思っていたが、どこか死角に潜り込んでしまったのだろうか。
 そんな具合に赤紙がきょろきょろしていると、

「……これ」

 と、ちいさな声がして、赤紙の視界に一冊の本が差し出された。反射的に表紙に書かれたタイトルに目をやると、それこそ赤紙が探していた最後の一冊だった。
 ばっと顔をあげる。そして、赤紙は言葉をうしなった。
 背後からの光に照らされて、逆光で顔がよくみえない。けれど少女であることはわかる。小柄で華奢な矮躯。光に透ける桜色の長い髪。陶器のように白い肌。そして、宝石の輝きをとじこめたようにきらめく緑色の瞳。その瞳が、じっと赤紙を見つめていた。
 時が止まったかのように錯覚する。黄金色の光に満ちた空間で、まっさらな表情は無垢ともよべる。その雰囲気は穢れを知らず、一種の神聖さまで有しているような。

「……?」

 窓から差し込む光がかげり、室内の明かりに照らされた少女の顔が浮かび上がる。彼女がいぶかしげに眉をひそめたので、赤紙ははっと我に返った。あわてつつも差し出された本を受け取りながら、自分の心臓がうるさくなり始めたことに、今更のように気づく。
 まさか──まさか自分は、みとれていたのか?
 そんな考えに至ったとたん、かっと耳元に熱がのぼり、うるさいほどに鼓動の音を聞く。お礼すらままならない状態の赤紙に気づいているのかいないのか、前に立ったままだった少女がふと口を開いた。

「好きなの?」
「は?」
「海」

 彼女の指先──よく見れば彼女の両手は革の手袋でかくされている──が示したのは、赤紙の持つ写真集の表紙だった。そこにはコバルトブルーに輝く海の写真が大きく印刷されている。

「……」

 赤紙は咳ばらいで気を取り直す。自分が普段通りの状態にないことを半ば悟りつつも、気のせいだと己に言い聞かせながら。

「別に、好きでも嫌いでもねえよ」
「そう」

 彼女はかるく顎をひいてうなずいた。表情は特に変わらず、声も平坦で抑揚に乏しい。絹のような髪が、彼女の頭の動きにあわせて肩をすべってゆく。彼女はじっと写真集に視線を落としていたが、やがてふとその瞳がゆらめいたように見えて、赤紙は目を瞬かせた。静かな湖に石が放り込まれ、湖畔にまで波紋が届いたのを目にしたような感覚に陥る。

「私は好きだな……」
「……っ」

 それは、とても些細な変化。まっしろだった彼女の顔にうっすらと赤みがさして、真一文字に引き結ばれていた唇がほんの少しだけカーブを描いたくらいの、ほんとうに微妙な変化。けれど彼女のそばに立っていた赤紙はそれをはっきりと目にしてしまう。そうしたらもう、だめだった。本能が理解する。この心臓をつかまれたような衝撃、息をのむくらいの動悸、これを人は──ひとめぼれ、というのだ。
 初めての感覚に、脳内が白一色に染まる。頭ががんがんする。どうしてしまったというのか、自分は。じわじわと熱が顔に集まっていくのを意識すると、余計にそれが加速していく。このままではいけない、その思いで口をひらくが、なにを言えばいいのかもわからない。

「っ、と──」

 しかし苦し紛れの声が中身を得るよりもはやく、彼女の視線は横へと逸れた。本棚の隙間に何かを見つけたのか、緑の瞳がわずかに見開かれたかと思うと、彼女はその身をひるがえした。あっけにとられている間に、彼女の姿は本棚の向こうへと消える。我に返った赤紙が彼女の背を追ってようやく本棚の向こう側に顔を出したとき、その声が聞こえた。

「ヒスイ」

 彼女の声だった。硬質で透き通った声。けれど先ほど赤紙と会話していたときよりずっと、温度と湿度を有し、人間らしさを滲ませた声音だった。息をのみ、視線をあげる。視線の先にいた先刻の少女、その傍らに立つ青年が、視界に入った。
 少女よりも背が高い。すらりとした細身、深緑の短髪、喉元に目立つ白の包帯。どこか野性的な獣のごとき立ち姿をしたその男は、なにやら少女と言葉をかわしている。隈のひどい、眠たげなまなざし。淡々と話す青年に対し、少女は微笑んでいた。まっしろに思えた肌には赤みがさして、先ほどよりもずっとわかりやすく、彼女は笑っていた。

「…………」

 赤紙はその場に立ち尽くす。目前の光景にあてられた、もしくはうちのめされた、といえるかもしれなかった。
 そうして赤紙は茫然とその場に立っていたが、ふと、視界のなかにいた青年がこちらを見たことに気がついた。

「!」

 思わず全身に力がはいる。少女はほぼこちらに背を向けており、青年が赤紙を見ていることには気づいていない。青年はしばらく赤紙をじっと見つめていた。何を考えているのかよくわからないその瞳は、まるで凪いだ海のような、

(──海、)

 小脇に抱えたままの写真集が、ずしりと重みを増す。いやな符号。赤紙の思考回路がそれを手繰り寄せるよりはやく、視界のなかの青年が動いた。動いたといっても、ただ目を細めただけ。それでも、それだけで赤紙の全身がこわばった。
 つめたい眼だった。ひやりと砥がれた刃、もしくは牙を喉元に突きつけられたかのように、身動きひとつとれなかった。深海の沈んだ瞳に見据えられ、皮膚がじっとりといやな感覚をうったえる。その感覚は青年が興味をうしなったように視線をはずすまで、途切れることはなかった。そして、青年が少女に向ける視線、それは今さっき自分に向けられたものよりずっとあたたかく、慈しみが隠れたものであることを、理解する。

「おっ、いたいた。待たせたなー」

 と、赤紙の背が叩かれた。用事を終えたらしいトーマがいつの間にか赤紙のすぐそばに立っていて、立ち尽くす赤紙にふしぎそうに首をかしげた。

「何してんの?」

 動かない赤紙の視線を追ったトーマは、その先にいた二人組を発見すると少し驚いたように声をあげる。

「うわ、シクルだ」
「……あれが?」
「え? うん」

 ようやく口を開いた赤紙に、トーマはうなずく。持っていた数冊の本を抱えなおし、そっと青年を指さした。

「あれがシクル。ヒスイ=シクル」

 ヒスイ。その名は、先ほど少女が呼んだ名ではなかったか。下げた手にぎゅうとちからがこもるのを、どこか遠くのほうで自覚した。

「めずらしいな、図書館にいるなんて」
「……隣のは?」
「ん、あれはナデシコ=ハクリシカ。シクルとハクリシカは半年前、一緒にこの島に来たんだよ」

 トーマが口にした名を、赤紙は胸のうちがわで反芻する。シクル一派にはあともう一人仲間がいて、そいつは見るからにやばい奴で……などとしゃべり続けているトーマの声が、意識のそとへと遠ざかってゆく。出口へと歩いていくシクルとハクリシカだけが視界に満ちて、ちり、となにかが焦げつくような感覚が、赤紙を襲った。
 それは苛立ちとよく似ていて、けれど、なにかが決定的に違っていた。なにが違うのか、言葉にすることはとても難しい。
 現時点で確かなことは、ふたつだけ。ひとつは、その感情がシクルとハクリシカの両方に向けられたものであるということ。もうひとつは、これから先この学院においても、赤紙の生き方は変わらないであろうということだった。