砂糖漬けのりんごをあげる
ナデシコは鍋を覗き込み、手にした木べらで中身をかき混ぜる。できるだけやさしくゆっくりと、りんごの実をつぶさないよう注意しながら。すでに弱火で一時間ほど煮られたりんごはだいぶ飴色に変化して、木べらごしの感触もやわらかい。もういいかな、とひとり首をかしげて、かちん、とつまみを回し火を止めた。
【雛翼】本部の一角、少女たちの居住スペースである屋敷の一室。ナデシコにあてがわれた部屋にはキッチンが併設されている。これは料理を趣味とするナデシコに、心が与えたものであった。しかしそのキッチンを含め、ナデシコの部屋はやけに殺風景である。部屋の家具は必要最低限のベットとクローゼット、ちいさな本棚のみ。併設されたキッチンも彼女専用であるにも関わらず常にきちんと整頓されて、料理をする場だというのに生活感というものがない。まるでモデルルームのように清潔でひんやりした空間は、けれど無機質なナデシコにはよく似合う。
足元の引き出しからケーキ型を取りだして、先ほどのホーロー鍋に満ちた飴色の液体をそそぐ。ふわりと熱がただよって、目を瞬いた。その上から煮たりんごを隙間なく敷き詰めて、さらにその上にタルト生地を重ね、伸ばしていく。
単純ながら正確さが必要となる料理がナデシコは好きだった。淡々と工程をこなし、進めていく過程には感情をはさむ必要はない。ただ───
(……余計なことを、考えてしまうことはあるけれど)
たとえば、自分が料理をはじめたきっかけ。自分がつくった料理を誰に食べて欲しかったのか。そのひとは自分がつくった料理を口にして、どんな顔で、なにを言ったのか。
けれど、
(……ここに彼は、いない)
タルト生地を押して伸ばしながら、考える。考えてしまう。
あの物語を終え、笹葉心に差し伸べられた手を取った時から、ナデシコはひとりで歩かなければならなかった。彼のために生きているんだ、なんて、もう口にできない。だってナデシコの生きる理由だった彼は、ここにはいない。ナデシコに意味を、理由をくれる存在は、もう───
ピーッ、ピーッ、という音に我に返った。振り返れば、オーブンが余熱を終えたことを知らせるために点滅している。知らず止めていた息を、ゆっくりと吐きだした。思考とは厄介なものだ。止めようと思っても止められない、意識すればするほどに、いつの間にかめぐらせてしまう。
ため息をつく。ひとりでいると、いつもこうだった。終わりなんてない、意味のないことをずっと考えて、暗い穴をのぞきこんでいるような錯覚に陥る。ナデシコは【雛翼】という存在になってから、こうして考えにふけることがよくあった。自分の選択を思い返し、指針に迷うことが、よくあった。
ふだんは他の【雛翼】たちの言動が物珍しく、そちらに気を取られることのほうが多い。心と話すと迷いが消えるような気がするし、迷継といると聡明な彼女との会話に落ち着く。萌黄は常識的で話しやすくて、傘璃はナデシコが作った料理をたくさん食べてくれるからうれしい。白雪には突拍子もない行動に驚かされて、灯夜は───
「……いけない、いけない」
灯夜のことを考えて、今自分が何をしていたのか思い出した。急がねばならない、と準備のできた生地をオーブンに入れる。このキッチンにある電化製品はどれも心のつくったもので、たとえばオーブンなら本来必要な焼き時間を短縮することができる。その仕組みがどうなっているのかは知らない。心によれば「魔法だよ」とのことだが、ナデシコは魔法を知らないので、原理はわからない。
本来必要な焼き時間を思い返し計算をして、ナデシコはオーブンのつまみを回し、スイッチを押した。
迷継ノアは人工生命体である。
フラスコの中で生まれ、魔力で編まれたからだを得て生活している。自身が生まれたいきさつは、知らない。自分に生命を与えた笹葉心は「話し相手がほしかった」などと言っていたが、あれが莫大なコストのかかる魔法をそんな理由でつかうなんて、迷継は信じていなかった。
あれは───自分のオリジナルは、そんな殊勝な精神の持ち主ではない。笹葉心は自身の単純な興味や嗜好、それから好奇心にしたがって生きる魔女なのだから。その性質は迷継自身にも受け継がれていた。中でもとりわけ迷継が関心を寄せるのは「願いを有した人間の行動、感情の機微」に関する事柄なのだが、それは、さておき。
人工生命体であるところの迷継にも、好物がある。彼女はべつに薬やサプリメント、点滴で生きているわけではない。ふつうの人間と同じように食事を必要とし、味の好みもそれなりに持っていた。
コンコン、とドアをノックして、しばらく待つ。「はーい」とドアのむこうから声がしてドアノブが回り、部屋の主が姿をみせた。
「ごめんね、いまから冷やすところで……あれ?」
「やあ」
ドアを開けた先にいた迷継に首をかしげたのは、部屋の主であるナデシコだ。廊下にひとりで立っている迷継の左右をきょろきょろと見回して、視線を戻す。大きな緑の瞳がいちど、瞬く。
「ノアちゃんひとり?」
「うん? うん、そうだけれど」
「そう……えっと、何か用事かな」
そう訊かれて、迷継はうすい笑みをうかべる。
「いい匂いがしたものだから。お裾分けを頂けないかと思ってね」
実際、迷継の立つ廊下には甘くていい香りがしている。先ほどまで迷継は自室で本を読んでいたのだが、部屋に漂ってきたいい匂いに気づいてここまでやってきたのだった。
この【雛翼】本部において、甘い香りは高確率でナデシコによるものだ。彼女が趣味と暇つぶしと考え事のためにしょっちゅう料理をするのは皆知っていて、───彼女自身がどれだけ意図しているのかはわからないが───毎回それなりに量ができるのも知っているので、他の【雛翼】はいい匂いがするたびナデシコの部屋を訪れる。いつもなにかを食べている傘璃と甘いものに目がない白雪は、特にその頻度が高いようだった。
迷継の言葉に、ナデシコはうなずく。桜色の髪がさらりと揺れる。見れば、彼女はパステルグリーンのエプロンを身につけていた。
「いいよ。でもまだできあがっていないから、良ければ中で待っていて」
「ではお言葉に甘えて。ああ、紅茶くらいは自分で淹れるよ」
手招かれ、迷継はナデシコの部屋のドアをくぐった。何度見ても、彼女の部屋は殺風景だ。よく片づけられ、掃除も行き届いている清潔な部屋だが、個性や生活感がない。
(……ひとのことは言えないか)
自分の部屋も似たようなものだということを思い出し、迷継は内心皮肉っぽく笑った。本も音楽も、図書室に行けば借りることができる。迷継はあまり私物というものを持っていない。物欲が薄いのだ。だから部屋も必要最低限の家具しか置いていない。初めて迷継の部屋を訪れた際、白雪が驚いていたことを思い出す。そんな彼女の部屋はぬいぐるみや雑貨で埋もれ、魔窟のようになっているが。
部屋の奥、キッチンのほうに歩いていくナデシコの背を追う。彼女がオーブンを覗きこむ横で、食器棚からガラスのティーポットとそろいのカップやソーサーを取り出す。この部屋には何度も来ていたので、お茶をする際に必要なものがどこに仕舞ってあるかはなんとなく把握していた。
電気ケトルでお湯を沸かしながら、ちらりとナデシコのほうを見る。問題なく焼けていたのだろう、オーブンから取り出されるケーキ型。生地の表面はいい焼き色で、ふわりと香るのはバターと砂糖と、それから煮たりんごの匂い。自分の予想が間違っていなかったことに、つい唇の端がもちあがる。それは迷継にとって、いわゆる「好物」だった。自室でこの匂いに気づいたとき、少しうれしい気分になったのも事実である。我ながら、まるで人間のように単純だナアとは思ったものの、美味しいものに罪はない。それは迷継がこの世に生を受けてから知った、この世の摂理とも呼ぶべきもののひとつだった。
ナデシコは、取り出したケーキ型をオーブンの傍らに置かれた機械の中に入れる。それが心がつくった魔道具のひとつである。見た目はこぢんまりした小さな冷蔵庫のようで、扉の表面にはちいさな液晶がついている。これは心曰く「瞬間冷蔵庫」だそうで、時間を設定してボタンを押すと、指定した時間ぶんだけ入れたものが冷やされるらしい。
ナデシコはケーキ型を入れて「瞬間冷蔵庫」の扉を閉めると、慣れた手つきで時間を入力しボタンを押す。すると「瞬間冷蔵庫」はがこん、とひとつ音を立て、しばらくしてピピピ、と目覚ましのような音を発した。冷やし終えたようだ。
自身のオリジナルが作った魔道具を他者が使いこなす姿を見ていると、何ともいえない気分になる。そんなことを考えながら、迷継は茶葉の容器を開けた。
浮かれていない。浮かれてなど、いない。ましてや緊張などもしていない。していないったら、していないのだ。ああ、もう!
浅科灯夜は百面相をしながら【雛翼】本部、少女らの居住スペースのある屋敷の廊下を歩いていた。ここ最近は本部に帰ってきても先生がいなかったり、いても忙しそうで声をかけづらかったりと、話をする機会がなかなかめぐってこなかった。それが昨夜、廊下でばったり会った先生は「明日はなにをして過ごそうかな」なんてことを言っていたのである。それは、つまり、
(先生のお手が空いているということ!)
今日が何の日であるか、灯夜は知っていた。知っていたが、今日という日に対し、灯夜本人にとって感慨や思い入れは特になかった。なぜならもともと彼女はそういった記念日をくだらないと思うたちだったし、ここ、【雛翼】本部に日付の概念などあってないようなものだし、今の灯夜は年なんてとらないからだ。けれど、自身の愛してやまない先生がすぐそばにいる今なら、そこに意味を見出すことができる。
自分の生まれた日に、自分のすきなひととケーキを食べたいと考えるのは、乙女にとって至極当然のことではないか。
そういうわけで、灯夜は今日この日に先生とお茶をするべく、お茶とケーキを確保することにした。お茶についてはさきほど、萌黄におすすめされた茶葉を手に入れた。ケーキについても昨日の夜、屋敷前をふらふらしていたナデシコをつかまえて、タルト系を焼いてもらうよう頼んでいた。洋菓子関連ならば、彼女に頼めば間違いないだろうと思ったからだ。自分がいっとうすきな洋梨のパイにしなかったのは、特定の種類をつくってほしいと頼んでも材料が用意しにくい場合があるかもしれない、と配慮してのことだった。
もうじきナデシコと約束した時刻になる。そろそろタルトも焼けたころではなかろうか。廊下を歩く灯夜のもとにも、甘い香りが届いていた。
歩きながら、灯夜はどきどきうるさい心臓をどうにかしようとする。自分はべつに浮かれていないし、緊張もしていない。いや、先生と一緒にケーキを食べるのをたのしみにはしている。けれど、そんな目に見えて浮かれていたら、たとえばあの先生の姿を模倣したいけ好かない輩に出くわした場合、からかわれるのがオチだ。自分が浮かれているとしても、その姿を目にしていいのは先生だけなのだから。だから先生に会うまでは、平常心で、平常心で……。
などと考えていたら、いつの間にかナデシコの部屋の前まで来ていた。こほん、とちいさく咳払いをして、コンコン、とドアを叩く。部屋の主が扉を開けるまで手持ちぶさたで、自分の長く編んだ三つ編みを指先でいじる。それから今日も今日とて身にまとった勝負服であるセーラーの裾を伸ばしたりしていると、ようやくドアノブが回り、ドアが開いた。
開いた先には、エプロンをつけた華奢な少女が立っている。
「灯夜ちゃん」
こちらの顔をじっと見つめてから名を呼ぶナデシコに、灯夜はちいさく顎をひいて会釈をする。
「どうも。お願いしていたもの、できてます?」
「うん。今、切るところ。あがって」
ナデシコが扉を手でおさえたまま室内を示すので、それじゃあ、と灯夜は部屋に足を踏み入れた。がちゃん、と音をたてて扉が閉まる。ピンクのスカートをひるがえして奥へ進んでいくナデシコの後をついて歩く。
ナデシコの生活スペースを抜け、奥の部屋へ。部屋の中央には洒落たデザインのアンティークなテーブルとイスが置かれていて、そこに座っていたのは、
「───おや。灯夜じゃないか」
「迷継……!」
イスに腰かけ、ティーカップをかたむけていたのは迷継ノアだった。その夕焼け色の瞳が灯夜の姿を認めたとたん、チェシャ猫の瞳のように細められる。迷継はかちゃり、とカップをソーサーに置くと、芝居がかったしぐさで頬杖をついた。灯夜は反射的に顔をしかめる。
「どうしたんだい、こんなところで。もしかして君も、この匂いに引き寄せられてきたクチなのかな?」
「貴方と一緒にしないでもらえます? 不愉快です」
にやにや笑う迷継と、舌打ちして顔を背ける灯夜。そのあいだに立つナデシコはテーブルに置かれたケーキを切り分けながら、口を開いた。
「灯夜ちゃんに頼まれたの。タルトを焼いてほしいって」
だからこれは彼女のためのタルト。そうつぶやいて黙々と包丁を動かすナデシコの言葉に、「へえ」と迷継が片眉を上げた。
「きみが、ねえ……。めずらしいこともあるものだ。どういう風の吹き回しなのかな?」
尋ねる声に、灯夜は「ふん」と鼻を鳴らして腕を組んだ。ああ、苛々する。灯夜はこの女が嫌いだった。その髪も鼻も唇も、首筋も手も足も───あらゆる部位が先生とおなじつくりをしているのが気に食わない。くわえて声までも同じときている。そのくせ先生と違って性格は最悪なのだ。
「貴方には関係ありません。いい加減その減らず口、ホッチキスか何かで綴じたらどうです?」
「痛そうだからね、やめておくよ」
灯夜のとげとげしい台詞も、迷継はにやにやしながら軽くいなす。自身の愛する笹葉心の模倣品である迷継ノア。気に食わない部分は多々あれど、なにより彼女が灯夜に対し、時折見透かしたような口ぶりをするのがいちばん嫌いだった。
「……灯夜ちゃん、ふたきれでいいんだっけ」
と、切り終えたらしいナデシコがそう灯夜に尋ねた。相変わらず、どこか硬質な声をしている。彼女に「ええ、お願いします」と答えて視線を戻すと、迷継は先ほどよりもいっそう楽しそうな笑みを浮かべていた。
「なるほど」
「……なにが『なるほど』なんですか」
その笑みが不気味で訊くと、迷継は頬杖をはずして、座ったまま伸びをした。ほんとうに、猫のようだ。からだの動きに連動するように、青いサイドテイルの先がゆらゆらと揺れる。
白い箱に灯夜のぶんを詰めてくれているらしいナデシコ。その横で、迷継は空いた皿に自分のぶんをひときれ取りわけて、金色のフォークを振りながら、
「Oneだろう?」
と、言った。言われた灯夜は、瞬時に頭のほうに血があつまるのを自覚する。
One。迷継は心のことをそう呼ぶ。自分をつくりだし、自分のもとになった原初の存在として、そう呼ぶのだ。灯夜は、迷継が心をそう呼ぶのを聞くのがきらいだった。
その呼び名もひっくるめて、お互いにお互いがとくべつであるかのような───心と迷継の関係が、ねたましい。
灯夜はぎり、と奥歯を噛みしめた。イスに腰かける迷継につかつかと足音をたてて詰め寄り、だん、と机を叩く。
「その名で───その名で先生を呼ぶのをやめろ!」
叫ぶと、迷継は笑ったままで肩をすくめた。そのしぐさひとつひとつが灯夜の癇に障る。姿かたちが心に酷似している彼女。灯夜の中身を見透かすような台詞を吐く彼女。
「やめろと言われてもね。僕にとってあれはOneとしか呼びようがない」
「『あれ』ですって……!? 先生は、先生はお前なんかがそんなふうに形容していい人じゃない!」
「どうだかね。だれもあれのことなんて理解できていないのに、ずいぶんと知ったようなことを言う」
「───ッ、偉そうな口を……! いい加減に───」
「…………私の部屋で喧嘩をするのはやめてもらえないかな」
つめたい声が灯夜の言葉を遮った。文字通り冷や水をあびせられたような感覚に口をつぐみ、声が発せられたほうに目をやる。ナデシコは白い箱を手に、灯夜と迷継を見ていた。静かなエメラルドグリーンの瞳は無機質な輝きをたたえたまま、ふたりの姿を映している。その顔に感情はない。しろいかんばせにはなんの色も浮かばない。けれど、先ほどの声にはうっすらと嫌気のようなものが感じられた。
「……すみません」
灯夜は二、三歩うしろに下がり、そう口にした。あれほど頭にのぼっていた血はすとんと胸のあたりまでおりて、先ほどまでのように叫ぶ気力はもはやない。迷継が「申し訳ない、つい余計なことまで言ってしまったようだ」などとのたまっているのが遠く聞こえた。
ナデシコはそんなふたりを見てわずかに顎をひくと、何事もなかったように灯夜のもとへ歩み寄る。怪訝そうに眉をひそめた灯夜に、「これ」と持っていた箱を示し、ふたを開けた。
中におさまっていたのはふたきれのタルトタタンだった。ケーキ上部の層は煮られたりんごがきれいにぎっしり並べられ、カットされた面もうつくしい。ていねいに工程を踏んでいるのだろう、表面のカラメルはほんのりと甘酸っぱいあかいろをしていた。
「タルトタタンふたきれ。問題ない?」
ちいさく首をかしげて投げかけられた確認の台詞にうなずくと、ナデシコはふたをしてから「はい」と箱を灯夜に手渡した。ずっしりとした重みが灯夜の手の上に移動する。
「フォークは入っていないけど、大丈夫?」
「……はい。ありがとうございます」
灯夜は胸のなかで何度か呼吸をしてから、スイッチを切り替えるようにしてナデシコに礼を言った。
「どういたしまして」
ナデシコはふわりと口もとをゆるませて、そう返す。このお礼はまたいずれ、と灯夜が言うと、きょとんとした顔をして、それから、
「……うん、わかった」
とちいさくうなずいた。そんなふたりのかたわらで、迷継はタルトにフォークを突き刺し、ひとかけら、口に放り込んだ。
【雛翼】の少女らが生活する屋敷の裏には温室がある。
笹葉心はひとりで温室のなかをうろついていた。迷継と同じ、空色の髪を後頭部で結い上げて、真っ白な白衣を羽織っている。
温室の中はガラスの屋根から漏れる日の光で照らされていた。タイルを敷き詰めた歩道、それを囲むようにして咲いた色とりどりの花と、手入れされた草木。視界の端をちらちらと通り過ぎていく黒いもやのようなものは、この【雛翼】本部という空間にくっついている魔力の残滓のようなものだ。それらは時折まるい生物のかたちをつくり、このガーデンの手入れや【雛翼】本部をぐるりと一周する路面電車の車掌の役割などを果たしていた。
心は特に目的もなく、ぐるぐると温室内を歩き回っている。なにか目につく花でも咲いていれば、実験にでも使ってみようかと思っていたのだが───今日はどうもそういう日ではないらしい。気が乗らないし、いい具合の花も見つからない。足を止めて、ガラス張りの天井を見上げる。今日はおとなしくしているかな、と思っていると、
「先生!」
と自身を呼ぶ声がした。そういえば自分のことを先生と呼び始めたのははたして誰だったろう───などと考えながら、心は声のしたほうを振り向いた。
心のもとに駆け寄ってきたのは灯夜だった。いつもと同じ青い襟のセーラー服を着て、長い二本の三つ編みを揺らして走ってくる。灯夜は心の傍らで立ち止まり、ぺこんと礼をした。
「やあ、灯夜」
心は白衣のポケットに手を入れて、そのままひらひらと手を振ってみせた。対する灯夜は頬をあかく色づかせて、なにやら言いよどんでいる。
「あの、先生! ええと、本日は、お日柄も良く……」
なにか口のなかでもごもご言っている灯夜を見つめ、心はふむ、と考える。少し考えて、これまでの経験上、彼女がなにか言いづらそうにしているときは、たいていこちらをなにかに誘おうとしているときだということに思い至った。
「なにか私に用事かな?」
微笑んで、灯夜の顔を覗きこむ。至近距離から顔を覗かれた灯夜は目を見開きわずかに硬直して、それからええいままよ! とでも言うように、持っていた白い箱をずいと突き出した。
「ケーキを、持ってきたので! 一緒にお茶でもいかがですか……!」
箱を差し出された心は青い目を丸くした。けれどどこか必死そうな、緊張したような灯夜の表情にくすりと笑って、
「ありがとう。それじゃあ一緒にいただこうか」
そう言うと、灯夜はぱっと顔を輝かせた。心もなんとなくうれしい気持ちになる。純粋に自分のことを慕ってくれているらしい彼女が楽しそうにしているさまを見るのは好きだ。灯夜はふだん結構肩肘を張っているようだから、もっとリラックスできる環境をあげたいとも思う。心がナデシコにキッチンを与えたのも、同じような理由からだった。
ふたりは他愛無い話をしながら、温室内にある休憩スペースへ向かった。
「ケーキの種類はなんだろう」
「タルトタタンです」
「へえ。ナデシコかな?」
「はい。焼いてもらいました」
「彼女がつくるものは美味しいからね。……ああ、そういえばノアの好物がタルトタタンだったな」
「…………(それでかあの模倣品)」
なぜかしかめっ面で黙ってしまった灯夜に目をやって、心ははじめてこの少女に出会ったときのことをなんとなく思い返した。
(……あのときも、)
あのときも、この少女はこんなしかめっ面をしていた。あの頃の彼女はいつも世界すべてを軽蔑するようなまなざしで、心底飽き飽きしたように振舞っていた。そんな彼女の物語の終わりを見届けて、心は灯夜を【雛翼】三人目に迎えることを決めたのだ。
あの世界での出来事を思い返しながら、ふと気づく。そういえば、心はあの世界で彼女の誕生日を祝ったことがあった。なんとなく気の迷いか気まぐれで、洋梨のタルトを手土産に、彼女のもとを訪れたのだ。確かあの日付というのが───
とあることに思い至り、心は灯夜に気づかれぬようひっそりと笑みを浮かべる。これをいきなり告げたら彼女はどんな顔をするだろう。いたずらっぽい思いつきに胸の内をおどらせながら、心は三つ編みの彼女のために、その唇をひらいた。