そうしていつかの春が来る
雨は好きでも嫌いでもありません。ただ、濡れることが億劫なだけ。私にとって雨、つまるところ水であるこの液体は自身の肉体に限りなくちかいものであり、害を及ぼすはずがないというのは大前提として理解しています。
けれど、やはり。私もにんげんであるのです。人間。神が自身に似せてつくった存在。誰がなんと言おうと、私は人間としての誇りを捨てたつもりはありませんでした。生物として、この世に生命をさずかったものとして。それがここに至るまで無様にも生き延びてしまった私なりの覚悟でした。私がこれまで歩いてきた道に、いったいいくつもの犠牲となったものたちの屍が埋まっているのか。
嗚呼、天国で神に迎えられたであろう母よ。私は今日も、無為に生きています。
「冷えると身体に障る」
雨空をぼんやり見上げ雨に濡れる身体をそのままにしていると、うしろに音もなく立っていた漆黒の彼が私の頭上に傘をさしました。灰色の雨雲で覆われた空を遮る黒い蝙蝠傘から目をそらし、私は私に傘を差し出した彼を見ました。
彼の名前は───否、彼の本名については記憶していません。私の「バイヤー」であるところのフェリオン・マギアが束ねる巨大組織。私も彼もそこの構成員のひとりであり、幹部なぞという厄介な立場に立つ者同士でありました。私達は組織内において、フェリオンが命名したコードネームで呼ばれています。彼は【伯爵】。常に燕尾服のような黒い堅苦しい衣装を着た初老の男性で、その特徴的な細長いシルエットをみかけるたび私は彼だとすぐにわかります。
「……ありがとう」
「気にすることはない」
表情を変えることなく言い、彼は私と同じように空を見上げました。ぽたり、ぽたり、私の頭から爪先までを隙間なく濡らした水が頬をつたい雫となって顎から落ちます。傘を受け取った私はちらりと彼の顔を見ました。彼の薄いダークブラウンの瞳にはただ雨粒がいくつもうつっていて、けれどその奥底には長い年月をかけて積もっていったなにかが沈んでいました。
ざあざあと雨の降る音だけがしています。私と彼はうえから命ぜられた仕事をこなすため、とある島に上陸したばかりでした。なんでも、フェリオンの仕事上の縄張りを荒らす新参者があらわれたのだとか。私たちはそのお偉いさんを暗殺するため派遣されたのです。周囲をぐるりと見渡しても、前にはただ街へとのびる色とりどりのタイルで飾られた道が、うしろには私たちがここまで乗ってきたちいさな船の浮かぶ大海原しかありません。その海も、いまは泥みたいな空をうつしておんなじ色にそまっていました。とてもさびれた港でした、ここは。
「……本番は明日だ。【彼岸花】、貴女と組むのは初めてではないが───宜しく頼む」
「ああ……、はい。よろしく」
ふと【伯爵】がそんなことを言ったので、私はなんとなく安心しながらそう答えました。奇人変人、ひとをひととも思わない輩ばかりが集まるこの組織の幹部ですが、そのなかでも彼は礼節というものをその身にしっかり刻んでいました。つまるところきちんとしたひとなのです、彼は。
私はそんな彼の隣がなんとなく居心地いいと感じていました。彼の過去も本名も何も知らない私は、そんな感情だけを彼の印象ととらえていました。そんな彼でも数多の幹部の例に漏れず、仕事では慈悲も容赦もないのですが───それは私も同じこと。
「……そういえば、新入りがくるなどと【高下駄】が言っていたな。耳にしたか」
「? いいえ……。新入り?」
「ああ。久方ぶりのことだ───また人語を解さぬ狂人でないといいが」
【伯爵】は白い眉を寄せて、難しい顔をしました。前回新しく幹部に昇進した【わだつみ】は人の話を聞かない拷問係であるので、きっと彼女のことをいっているのではないでしょうか。
「あなたのように話しやすいひとならば私も歓迎するのだけれど」
「……それは有難い言葉だ。こんな老いぼれにはな」
「本心を述べただけだよ」
私はもうずいぶんと長い間幹部の座にいます。目の前の【伯爵】よりも、ずっと長く。幹部の間に序列関係はないけれど、彼はなぜだか古株である私に一歩引いた姿勢を見せます。私はそれが少しだけ気にかかるけれど、気にせず尋ねてみました。
「それで───その新入りのなまえとかは、きいているの?」
「素性や性別はわからないが…なんでも【刀鍛冶】らしい」
「【刀鍛冶】」
いつものことではありますが、そんなコードネームではそのひとがどういう人間なのかまったくわかりません。けれど、どうしてか───そのなまえに、私の首すじがざわざわしました。まるでなにかの予感に震えたかのような、そんな。私はそれに首をひねりましたが、すぐに忘れてしまいました。
この時の私はまだ知りません。件の【刀鍛冶】───ヒスイとの出逢いが、私の物語のおおきな別れ道となることを。