となりあわせの幸

 迷継ノアというにんげんはそれはそれはほんとうによくわからないやつであった。

 ぱちぱち泡をはじくサイダーみたいに真っ青な髪の毛をいつだって風になびかせて歩き、細いふちのめがねのむこうでその目を細める。それをみる誰しもがかのじょのこころなんて読めたもんじゃない、読めるわけないと背を向けて、ただそこにはかのじょに対して発せられた陰口がぽつねんと寂しげにのこったものだ。

『変わり者』

 わたしはかのじょについてただなまえと顔くらいしかおぼえていなかったので、そういう大多数のにんげんがささやくことばでしかかのじょを推し量れなかった。ただそのあと幾度かことばを交わしてみる限り、べつにそこまで気の触れたにんげんではなさそうだな、という感想を得た。ただ感情の揺れが激しいだけの『そのへんにいる』変人だ。
 たとえばある日かのじょは前触れもなしに折鶴を大量生産していた。なにしてるの、とわたしはたずねたようにおもう。
 そうするとかのじょはちらっとその夕日色に光り輝く目ん玉をうごかしてわたしをみやり、「莫迦な友人が屋上ダイブして死にぞこなったから千羽鶴送りつけて笑いものにしてやるんだ」とどこからどこまでが嘘なのかわからないようなことをいった。
 そのご友人とはたぶんこの学校でたびたび噂になる朱色の目をしたあのこのことなのだろうなあとわたしはおもいつつ、そうかあそれはたいへんだねえと気の抜けた返答をした。
 かのじょはそう答えたわたしをみて、「きみも一羽折ってみるかい」と提案して1枚、オレンジ色の折り紙をわたしに寄越した。鶴なんて小学生のころに折ったきりのわたしの折鶴は、かのじょのそれと比べるとやっぱり不格好にゆがんでいた。




 ある日かのじょになまえの由来をたずねてみた。
 ノア。迷継ノア。こう言っちゃまずいかもしれないけれど、へんななまえだなとずうっとおもっていたので。
 かのじょはたずねたわたしの顔をしばらくふしぎそうに凝視していたが、そののち「……なんだろうね?」と首をかしげた。自分のなのにしらないの、とわたしがきけば、名づけたひととさいきんめっきりあわないんだ、と困ったように答えた。
 なんでもかのじょに両親はいないらしい。ただ、親代わりのひとはいて、そのひとは年がら年中白衣をゆらゆらさせながらこちらが仰天するようなことをやってのけるようなやつらしい。へんなひとがいたものだ。じゃあ由来はなんだとおもう、ときいてみれば、「なんだろうね……。でもまあ神話上の神の迷走、世界創造のやり直しであるノアの方舟伝説からの引用であるのは間違いないだろうし……。きっと僕が繰り返しであることの暗示なのだろうな」とかつぶやいていて、あんまりおつむの出来がよろしくないわたしにしてみれば、ちょいっと首をかしげたくなるたぐいのつぶやきであったことには違いない。

「そういう君の名前の由来はなんだい」

 唐突に降り注ぐ自分への問にわたしはへ? と阿呆みたいに疑問符をうかべて、しばらく言い澱み、ただ季節の花からとっただけだとおもうよ、とかえした。自分の名前なんて気にしたこともなかったし。

「ふうん」

 かのじょはすこしだけうなずいて、それから「きみはしあわせなこどもなのだろうね」と真意のわからないことばをつむいだ。わたしはそれに首をかしげることしかできなかったし、それがどう言う意味かなんてたずねてはいけないんだろうな、と薄々感づいていた。




 ひとりが血にまみれて倒れ、ふたりが正気をうしなって、
 そうして赤目のあの子はこんどはほんとうに屋上からの飛翔でいのちも散らして。

 平和惚けした田舎の学生どももこれはさすがに異常なのだとゆるゆるの脳みそをしゃきんと凍らせるそんななかで、迷継ノアはたぶん変わらなかった。
 ああそうね皆きえてしまったね、というように表情をうかべず、薄氷のようにつめたいまなざしでただ前だけ見て生きているようだった。その両耳にぶっさしたイヤホンからは今日もたえず謎の電子音ばかりながれているのだろうか、薄っぺらなわたしのこころはそんなものに踊らされながらも話しかけることはかなわず、また変わりない日常に回帰しようとしていた。

「ああ……、きみか。ひさしぶりだね」

 蜂蜜色のあのこの机から花瓶が無くなり、机そのものが無かったことにされた2ヶ月後。
 わたしはようやっと開放された屋上にあがって、彼女が最後にみた景色でもみようかと意気揚々と扉をあけたのだけども、そこにいたのは何を隠そう迷継ノアである。飄々とした表情は相も変わらず。細っこい腕がフェンスにからんでいて、うすく笑みまでうかべていた。
 わたしは、そう、ひさしぶり、だなんて面白くもないことばをかえした。風が吹いている。スカートの裾がはためいて、髪の毛も横の方にながれていく。

「あのこが死んだよ」

 かのじょはいきなりそういって、にこりとわらった。あ、そう、だね、とわたしはつっかえながらうなずいた。なんてこたえればいいのかわからなかったのもあるけれど、何故だろうかのじょがまったくの別人にみえてしまった。歪む唇は皮肉げで、その背中にみえる空はかのじょのひとみとおんなじ色をしていた。

「Man is unhappy because he doesn’t know he’s happy. It’s only that.」

 その唇から流暢な英語が漏れた。どこか楽しげな声音で、かのじょはどこかとおくをみていた。え、なに? 首をかしげたわたしに、かのじょはちいさくわらった。

「人間が不幸なのは自分が不幸であることを知らないから、ただそれだけのこと」

 フェンスから離した手はうすく赤くなっていた。そのことばをききながら、たぶんかのじょはわたしのことなんてすぐにわすれてしまうんだろうな、とおもった。わたしはかのじょにとってただのそのあたりにいるにんげんなのだから。

「けれどあのこはじぶんの不幸をしっている。でも、不幸だった。それなのにわらっていた。それなのにしあわせそうに、笑顔なんだ」

 かわいそうなこだと、かのじょはいった。
 わたしはただそこに立ち尽くしていた。何度しかみたことのない蜂蜜のあのこはもういない。平和で摩耗したわたしたちの街はそれをはやくも忘れ去ろうとしている。そのなかで、どうしてかのじょはこんなにも憐れむ目でそんなことを語るのか。考えて考えて、ようやっと絞り出したことばはたぶんありふれていて、かのじょのこころには到底届かなかったろうけれど、それでもそれにかのじょが綺麗な夕焼け色の目を細めただけで、わたしは安堵できたのだ。




 そのすぐあと、迷継ノアというおんなのこはきえてしまった。

 もとからあのこは転入生だったので、その関係だろうとだれかが噂していた。わたしはべつに悲しくなんてなかったし、またあいたいと切に願うこともなかった。
 ただ、ああほんとうによくわからないおんなのこだったなあとふっと記憶を蘇らせるだけだ。あの青空とおんなじ色をした髪とか、夕焼け色にかがやく目とか、骨ばった両腕とか、
 それからあのとききいたひとつのことば。

 夕焼けに染まる黄昏時、かのじょはわたしを眩しそうにみていた。己の人生を思い返しているのか、目を細めて、めかねの奥でわらったのだ。

「きみはきっとしあわせだよ」

 それでいい。わたしはそれでよかった。物語の端でただ歩くだけの通行人Aのわたしはそれでよかった。けれど、たぶん、それにかえしたことばは、間違ってはいなかった。もうあうことはないだろうけれど、それでも、言うべきだった。だから、言ってよかった。わたしなんて忘れてもいいから、それだけは、忘れないでいて欲しい。

 あなたも死んでしまったあのこも、きっとしあわせになれるよ。