ビューティフル・アンドロメダ
はじめて彼女を目にしたとき、まるでアンドロメダが降ってきたみたいに視界がはじけた。ほんとうにそう感じたのだ。すくなくともそのときは比喩じゃないくらいにそう感じていた。そう、これがひとめぼれだ、と確信できるほどに。
白く透ける肌。澄んだ青の髪、深海の詰まったそのきらめくひとみに、華奢な手足、折れそうな背中。リップの光る唇から紡がれることばの数々が鼓膜を揺らすたびに、ああこのひとは『とくべつ』なのだと感じたのだ。
笹葉心。この世界の矛盾でありながら、この世界のたったひとつの救い、切り替わり、そして特異点。その存在に私が惹かれたのは必然なのだろう。なぜならば彼女は私がこれまでみてきた存在のなかで、あきらかにいちばんひかりに満ちていた。
ああ、彼女と言葉をかわしてみたい。
彼女と世界を切り離したい。
ほんのいちぶでいいから、私にあなたのなにかをくれませんか。
「───こころ、せんせ」
風があたり一面を撫でて去っていく。ひらひらと虚空を落ちていくあわいあかいろは、雪を連想させた。
私の視界のなかで、彼女はくるりと振り向いた。猫目にちかいアーモンド形の目がひかりできらりとひかる。細い指を白衣のポケットにいれて、わらった。
「どうしたの、灯夜」
そのほんのすこし首をななめにかしげる動作がすきだ。彼女の癖。こちらを上目づかいでうかがうまなざしはやわらかく、あたたかさをはらんでいる。深海のように澄んで冷えたひとみをしているのに、熱にその唇を歪ませる。
「先生はなにかを望んだこと、あるんですか」
「……そうだねえ」
唐突な問いにおどろいたのだろうか、いちど先生はぱちんと目をまたたかせる。幼い動作だった。かわいらしい。そんなふうに思って、つい笑みをうかべてしまった。
「そりゃあもちろん、あるよ。私だって人間だからね。願望くらいもつさ」
「……意外です」
ぽろっと口から言葉がこぼれてしまった。おっと、とおもわず口をおさえる。舞い散る桜が視界を埋め尽くす。先生の姿が垣間かくれて、目を凝らした。
「だって【雛翼】って、そういうものでしょう」
私たちは傍から物語をながめ、時としてページをめくるためにこの指先で世界をかたちづくらなければならない。なのに難しいのは、ページそのものに干渉してはならないところ。ページをちぎったり破いたり、文字のうえから文字を書き足したりしてはならない。私たちができるのは改稿だけ。文字のかたちをかえて、世界をほんのすこしだけずらす。いわゆる軌道修正。私たちには、世界をつくりあげる義務がある。
「───まあ、そうなんだけどね」
先生はうすくわらった。そのふたつの目に一瞬だけ様々な色が走ったようにみえたけれど、もしかしたら気のせいかもしれない。
「でも、私たちは完璧な傍観者じゃないーーだからこそ私たちは物語に触れなくちゃいけないんだよ」
「………」
そういう先生の表情は笑っているようにも泣いているようにもみえる。痛々しい微笑。先生は、【雛翼】のはじまりだった。物語を紡ぐ存在のはじまり。それはどんなものだったのだろう。あかるいものでは、なかったはずだと思う。それも、彼女が望んだものでもないのだろう。
運命と必然によって、私は生きている。
それは先生がよく口にすることばのひとつだ。
「……せんせい、」
「なんだい、灯夜」
私の声に振り向く。そのひとみを、みつめた。その深淵の底にはなにが沈んでいるのだろう。
「私が死んだら、先生はどうしますか」
私が【雛翼】としての役目をまっとうして、先生のために生きて、コーヒーにこぼす砂糖のようにして世界へと溶け消えたとき、
あなたは、どうしますか。
「……墓の前で、君のことを思うよ」
しばらくの沈黙ののち、つぶやかれたことばはそれだった。私のすきな声が鼓膜を揺らす。ことり、かしげた首は貴方にどう映っているのでしょう。
「洋梨のパイときみに似合う花と一緒に、さ」
曇りのないひとみだった。矛盾に包まれ絶対的な曖昧さにまみれた【雛翼】のはじまり。それそのものである彼女のこたえは、きっとたくさんのひとが望むであろうものだったけれど、同時にひどく模範的でもあった。
「……そうですか」
先生。私は笑えていますか?
自信はあった。私はこれまでも自分の本心をやわらかなベールと堅牢な殻で覆って、教科書的な存在でありつづけた。でもね、先生。私が望んでるのはそんなこたえじゃあないんです。私が求めているのはもっと私という存在に貴方が執着してくれるようなものでなきゃ駄目なんです。たとえば私が消えたら貴方も死んでくれるような、たとえば私が消えてから貴方はそのあとずうっと死ぬまで私のことを考えてくれるような。
貴方にとって私は世界のいちぶじゃいけない。
刹那的な悲しみと瞬間的な愛じゃあ私は満足だって納得だってできないのだ。
先生、先生。私にとっての愛は、きっと貴方にとってのそれとはちがう。けれど、けれど。きっといつか、教えてあげる。
「それは、光栄です」
私は微笑む。きっと笑えているはずだ。いつか、貴方はこの会話を思い出すときがくる。そのとき私は私の願いを叶えられているのだろうか。【雛翼】である私の願いはただひとつ。ねえ、貴方には想像できますか。私の願いは、あのアンドロメダが降ってきた日からずっとかわらない。
いつかその熟れた林檎の味を、貴方にも教えてあげるから。