じっとりと濡れた空気に、べたつく肌が鬱陶しい。ねずみ色一色に塗りたくられた空とはうらはらに、しん、と静まり返った中庭は一種の静謐さに満ちていた。梅雨の景趣に設定した本丸の庭には、たくさんの紫陽花が茂っている。白、薄藍、若紫、色とりどりの花弁が水滴を弾き、ひっそりと光っていた。
 気分転換に散歩でもどうか。そう言いだしたのは薬研だった。起き抜けから軽い頭痛にさいなまれており、気怠いまま書類仕事をするのに疲れ切っていたので、審神者は本日の近侍の気遣いに二つ返事で了承した。低気圧による軋むような頭痛には、いつまでたっても慣れそうにない。審神者は梅雨がきらいだった。
 この散歩を提案した刀は、審神者のとなりを歩いている。まるい頭とつややかな髪、ほんの少し目線をさげると、薄い眼鏡のレンズ越しに藤色の澄んだ瞳が視界に入る。黒い髪に白い肌、モノクロな姿は色鮮やかな花々の中に埋もれ、奇妙なコントラストを生んでいた。
「なあ大将、知ってるか」
 その横顔をぼんやりと眺めていると、不意に薬研が口を開いた。なにを、と問いかけると、彼がこちらを向く。ばさり、とまとう白衣の裾が翻った。その細くて小さな体躯に反し、彼の声は案外低い。じんわり響く落ち着いた声音は、慢性的に痛む頭にも心地良い。
「紫陽花の葉には毒があるといわれている」
 言いながら、傍らに咲いた紫陽花の葉を摘まむ。黒い手袋に覆われた指先が葉を千切らぬ程度に軽く引いて、ぱっと離した。反動で揺れた茎を見送る。だから、と薬研は続けた。
「だから、もし腹が減っても食うなよ」
 食べません。
 思わずむっとしてそう言うと、薬研は冗談だ、とからから笑った。確かに少しだけ紫蘇の葉に似ていると思ったことはあるが、紫陽花の葉が食用でないことはさすがに審神者も承知している。こんなにきれいなのだから、食べようだなんて思わない。そう口にしながらすぐそばに咲いていた紫陽花を見ると、白い花びらのふちがわずかに青く色づいている。
「大将は好きなのか、紫陽花」
 その視線を追って、薬研が尋ねる。審神者はうなずいた。梅雨はきらい、でも紫陽花はすきだった。湿気にしっとり濡れて輝く花弁、ちいさな花たちがもこもことかわいらしく密集するようす。そのどれもが好ましく思えた。
 そうは思わないかと訊きかえすと、薬研は切れ長の目をぱちぱちさせてから、そうだなとつぶやいた。そのようすがどこか淡白で、藤色の瞳の中になにか暗い赤色の影がよぎったように感じて、今度は審神者が目を瞬く。
「そうだな。俺もこの花は、きらいじゃない」
 けれどそれは一度の瞬きのうちに幻のように消えている。首をかしげた審神者に対して、薬研はにかっと笑った。
「それじゃあひとつふたつ、摘んで戻るか」
 そういえば執務室に空の花瓶があったな、歌仙がいい加減空のまま放置するなとか言ってただろう……などと口にしながら、白衣のポケットから鋏を取り出す。そして手ごろな大きさのものを手際よく摘み取っていく姿に、審神者は少し驚いた。普段は雅なことはよくわからん、なんて、そんなことを言っているのに。
「ほら。どうだ、これで」
 大ぶりの紫陽花を何本か握って差し出す薬研に、審神者はうん、とうなずく。その手つきが花を摘むというよりも首を刈るように見えたことは、口に出さないことに決めて。
 薬研は満足げな表情を浮かべて、執務室への道を歩き出す。このじめついた空気の中、その真っ白で陶器のような肌には汗ひとつ浮かんでいない。審神者はそれを少しうらやましく思った。